6、サリオ 17歳 春
その娘は、男爵の後妻の連れ子で、ある日突然貴族になったのだという。
半年ほど家庭教師をつけてから最終学年だけでもと、このディアム貴族学院へ転入してきたそうだが、まだマナーはいろいろと怪しいし、礼儀正しい貴族令嬢として適正な距離感というものをまだ把握できていないらしい。
しかし、だからこそ物怖じしないその態度と、感じたものをそのまま表してしまう豊かな表情がとても愛らしいと評判だった。
だから、最初は僕も純粋なる親切心で話しかけただけだった。それはある種の仲間意識。
貴族社会に上手に適応できない者同士、なにか手助けができたらという気持ちだった。
廊下で、なにやら不審な動きをして蹲っていた彼女に、なにか困っているのかと声を掛けた。
彼女はダンス室へと移動している途中で窓の外の樹に登っていた猫に気を取られて身を乗り出し、シューズケースを窓の外に落としてしまったのだという。しかも落としたことを外にいた教師に見つかってしまい「誰が犯人だ」とカンカンになっているので取りにもいけずにいるんです、と泣きそうになっていた。
正直笑った。僕以外にそんなドジを踏む生徒がこの学園にいると思わなかったからだ。
窓から顔を出し、まだ怒って犯人を捜していた教師に「すみません、落としちゃいました」と声を掛け、1Fまで受け取りにいった。
教師の「殿下、もう少し落ち着いて行動して下さい」という苦言を受け流し、彼女に渡して去ろうとしたら、何度もお礼をいわれて少し話をした。
猫は、教師の声に吃驚したのかすでにいなくなっていた。
そこから廊下ですれ違うと追ってきて挨拶をしてくるようになり、朝、馬車から降りて校舎に入るまでの間にどこからともなく駆け寄ってくるようになり、昼休みに一緒にランチを取るようになるまで、あっという間のことだった。
どこかで線引きをしなければと思う気持ちは確かにある。
あるのだが、僕だけを見ているといわんばかりの嬉しそうに輝くピンク色の瞳や、嬉しそうに僕の名前を呼ぶ甘えた声に幸福の形を見つけたようなくすぐったい気持ちがあって、どうしても無視できない。
最近は、つい、その濃い蜂蜜色をした髪がどこからか走り寄ってこないかと視線で探すようになった。
「サリオ殿下」
教室を急いで出ようとして声を掛けられた。
いつもどこかふざけた雰囲気を崩さない彼は、普段、僕のことを愛称で呼ぶ。つまり今はかなり機嫌が悪い、ということだ。
「なにか用か、パーシバル。僕は約束があるんだが」
ため息を吐かれた。まぁそんな態度になるよね。
「そのお約束のお相手はどなたでしょうか。貴方の婚約者フィーリア・デイマック伯爵令嬢と昼食でもご一緒するのですか?」
違うって判っている癖に。意地が悪い。
「…昼食を、違う人と約束している」
めちゃくちゃ睨まれた。当然だろうけど。
僕の婚約者であるフィーリア・デイマック伯爵令嬢は、双月の妖精と謳われるように、月光の輝きを集めたように輝く銀の髪と夕日を受けて煌めく海のような朱と紫の色合いをした瞳が印象的な美しき令嬢だ。つま先から指先まで完璧にコントロールされて動く仕草は気品に満ち溢れ、その姿のみならず動きひとつすら美しい。遍く理想の令嬢であり、才媛との誉れも高い。
そうして、双月の妖精の片割れは、元々はこのパーシバル・リスター公爵令息だったことを知る者はいまは少ない。
あの日、青空の下でフィーリアと一緒に花にまみれて遊んでいた金の髪をもつ少年が、理想郷を踏み荒らしてまで奪っていった宝物をなぜ軽んじて傷つけるのかと怒っている、そんな幻が重なる。
いや、そのままだな。間違いない。
いまだ少女のような華奢な体つきをした優しい相貌の半月早く生まれただけの従兄。
僕と違って超がつくほど頭がいい。理系に限っていえば百年に一度の天才だと言われている。災害被害をなくしたいという幼いころからの夢を叶えたいと、この学園を卒業したのち王立研究所に入り治水土木技術における研究職につくことが決まっている。
そして。研究に没頭したいからと、本当は嫡男だけど一生結婚はしない家督は弟に譲りたいと言って、いまだ婚約者を持とうとしない。
ちゃんと躾を受け入れられていたら、間違いを生んだあの日よりもっと前に、金の髪を持つこの少年に会わせて貰えていたのだろうか。
そうしたら、少年と対をなすべく存在した銀の髪の少女に迷惑をかけることもなかったのかもしれないと思う。
後悔先に立たず。。僕にしたら後悔役に立たずって方がぴったりくるな。
取り返しがつかないことっていうのは結構あるもんだ。
あの後、ことあるごとに婚約を取りやめたいと口にしてみたけど、言えばいうほど、拒否される言葉が強くなっていった。陛下に至っては、今では取り合うどころか顔を合わせただけで眉を顰められる。
そういえば、この間パーシバルが、現、双月の妖精の片割れといわれている男爵令嬢に詰め寄られているのをみた。
たしか伯爵家に行儀見習いとして入り、フィーリアの傍付き侍女としていつも僕とフィーリアが面会する時についてきていた子だ。切れぎれに僕とリズの名前が聞こえてきたから、きっとフィーリアに言われて文句を言いにきてたに違いない。
フィーリアも文句があるなら僕に直接いえばいいのに。回りくどいし、自分が嫌なことを手下にさせるなんて酷いやつだ。
…なんて。嘘だ。フィーリアはそんなことしない。
「リオ、聞いてるの?」
つい考えに耽って無視していたらしい。パーシバルがカンカンになっていた。
「君には婚約者がいるんだからね。その婚約者には会いにいかない癖に他の女性と二人で昼食をとる約束をするなんて、何考えてるのさ」
「…リズとは、そんなんじゃない」
「それ! リオ、君はフィリのことは愛称で呼んだこともないじゃないか。なんで他の令嬢を気易く呼んでるの?」
「約束の時間に遅れるから」
そういって僕は走って逃げだした。
ちょっとはマシになったと思ってたけど、僕は相変わらずいろんなことから逃げてばっかりだった。




