4、サリオ 16歳 春
2年生になった。
あれから、学園へ王宮からの申し入れがあったこともあり、”妖精のいとし子”について生徒と教師に対して説明が行われた。
ジェフリーの叔父さんを講師に迎え、講演会も開かれた。
もう、僕が授業中に教科書を見ていなくても、ノートが落書きにしか見えないもので埋め尽くされていても、誰も眉を顰めないし、呆れてため息を吐いたりもしない。
妖精のいとし子と呼ばれるのはちょっと恥ずかしかったけど、それでも自分がここにいることが認められたような気がしてほっとした方が大きかった。
ただどうしても理解は遅いし、文章を読むことも書くことも難しいので、テストやレポートによる採点の外での評価となり、僕の成績は低空飛行もいいところのままだった。
「殿下、今日の帰りに、絵を観に行ってもいいですか?」
ジェフリーが久しぶりに声を掛けてきた。
美術館を回ったり、王宮の肖像画の間で模写を続け、抽象画や風景画に静物画と、多種多様雑多な題材の絵を、油彩、水彩、パステル、木炭、ありとあらゆる画材で描き散らかしていたので、あっという間に広い筈の僕の部屋はついに絵で埋まってしまっていた。
今は中庭にあった温室を改造したテラスを僕専用のアトリエとして貰い、描き散らかした絵は倉庫として貰った部屋に突っ込んである。
「来てもいいけど、ジェフリーに観せられるような絵はないぞ」
なにしろ、あれからずっと描いているのは他人の絵だ。それもできるだけじっくり見て光の描き方や影の入れ方、布や花びらの質感の表わし方を覚えて、帰ってきて再現している。習作しかしてない。
「サリオ殿下の講師として正当なる報酬を要求します」
にやりと笑って言われると弱い。僕の居場所を作ってくれたのは間違いなくこの脂下がった男のお陰なのだから。
「お茶くらいは出そう」
あきらめ気味に受け入れた。そこで、ジェフリーの隣に立っていた奴が、いつもみたいにただ立っているだけではなくて興味津々といった顔をしているのに気が付いた。
ガイ・パニエル。現騎士団長の三男で、陛下が選んだ僕のもう一人の学友だ。
学友といっても、インドア派な僕とは相容れないためか話したこともほとんどなかった。一応形だけは学内における護衛っぽいものを任されているようで、話はしないが休み時間などは気が付くと近くにいる、って感じだ。
別に僕に命令権があるわけでもないし、本職の護衛みたいに命をお守りするために常に傍にいるように指示されているわけでもないっぽい。1日中一度も見かけないことだってあるというまごうことなき、護衛もどきだ。
短く刈り込んだ黒髪と意志の強そうな黒い瞳、きりりとした眉。僕より頭2つほど背は高く、細身だけど筋肉質な身体は、厳しい訓練を乗り越えてようやく手に入るしなやかさを備えている。その動きは正直エロいと評判である。ストイックさがいいらしい。よくわからない。そんな判りたくない判らないことを興奮気味にクラスメイトの男子に言われた時の僕の衝撃をわかってほしい。
うん。すまない。混乱してきた。
「ジェフリー様は、サリオ殿下の講師でいらしたんですか」
「前に妖精のいとし子について講演会で講師を務めたのは私の母方叔父です。なので”いとし子”については知識がありましたから、殿下の相談相手に志願しました」
随分と綺麗に纏めるものである。しかも嘘はない。省いた情報があるというだけだ。
「いとし子って、芸術に秀でた才能を持っているんですよね。俺もご一緒してもいいでしょうか」
「秀でてない。見せる様なものはな「是非、ご一緒しましょう」…んだと」
ジェフリーが俺が断りの言葉をいうのを遮って勝手に了承してしまった。
睨みつけてやったのに、笑顔を返されて眉を顰める。
くそっ。王子である僕の方が立場が弱いってどういうことだ。
「ありがとうございます。楽しみにしてますね」
「うわぁ。すごいですねぇ」
何がすごいのか。ただの習作の山をみて、何が嬉しいのかまったく判らない。
薔薇を描いたカンバス。前にジェフリーに描いてみせた時は鉛筆画だったけど、これは油彩。1輪は自分がこれまで描いていたそのままに。その隣には花弁を色の違いで表現した薔薇を1輪。そのまた隣には陰を入れることで立体感中心に1輪、その下には花弁の質感を考えに入れて1輪。そうして、練習したすべてを注ぎ込んでもう1輪の薔薇を描いてある。全部同じ角度で同じ薔薇を描いたものだ。
薔薇の絵を描いたものはもう1枚。花弁を薔薇の半分だけ抜き取ったもの。外した花弁を外側から1枚ずつ、雄しべと雌しべ、がく、茎、棘。分解して描く。萎れてくるのを待って描く。
自分の手を描く。角度を変えて、指を伸ばして、手を握って。絵画の中の天使の手、違う画家の描いた天使の手。侍従長の歳を経た手、侍女の働く手、王妃の手入れの行き届いた綺麗な手。全部ちがうのだと感じながら描いた。
透明な水晶の玉を描いたカンバスもある。右から光を当てた時、左から、上から、下から、宝玉の向こう側から、描いている背後から光が射した時、そのすべてが違う陰を生み、ものを映す。中にあるインクルージョンが光を乱反射しておもしろい。様々な陰を映し出す、その様を描き出す。
皇太后たるおばあ様の肖像画を模写する。明度をあげて描いてみたり、色彩をペイルトーンに落とし込んでみたり、色の乗せ方合わせ方での違いを確かめてみる。
すべて練習作品だ。自分の作品といえるものはまだ1枚もない。
さんざん絵をとっかえひっかえ品定めされたり、アトリエを案内させられ道具の説明をさせられた。疲れ切ったのでお茶にすることにした。
倉庫も、アトリエにしている元温室も、膠と油のにおいがきついので僕の部屋に移動してから侍女に紅茶と焼き菓子を頼むと、ちいさなサンドウィッチも一緒に運ばれてきて、ガイがひとりでがっついていた。足りなけれな勝手に追加するといいよ。
「努力、お嫌いじゃなかったんですね」
一息ついたところで、ジェフリーがからかうようにいう。
「…きらいだよ」
「あんなにいっぱい練習しても、それを努力してると感じないということは、殿下は本当に絵を描くことが好きなんですねぇ」
ガイが頬を膨らませたまま、にこにこ顔で言い切った。おい。紅茶こぼすなよ。
「そうですか。努力と思わないほどお好きなんですか」
それに乗っかって見せるジェフリーは間違いなく僕をからかって遊んでいるに違いない。
なんと言い返したら効果的か考えていたら、ガバッとガイが突然頭を下げた。
「…殿下、申し訳ありませんでした」
吃驚して、下げられたままの頭を見つめた。
「俺、正直、殿下が妖精のいとし子といわれてもピンと来なくて。座学も実技も適当にしか受けていないようにしか見えない殿下をお守りするようにといわれても、ほんと申し訳ないんですけど、こう… 気持ちが入っていかないというか…」
テーブルに両手をついて頭を下げたまま、懸命に言葉を探しているガイの頭を見ながら、僕は『こいつ旋毛2つあるんだな』とか考えていた。この毛の流れで硬そうな髪の質感を表現するにはどう描くのがいいのかなぁ。
「作品が発表されることもなくて、だからえーっと、その、真面目にやらない言い訳だとばかり思ってて…。ほんと、失礼なことを考えてた自分が恥ずかしいです。
今日、ついてきてよかったです。凄かった。あれが習作でしかないなんて、ビックリしました」
あれが習作以外のなんだというのか。大袈裟な奴だ。
「あー…。顔をあげてよ、ガイ。小さい頃の家庭教師たちも同じようなこといってたよ。言われ慣れてるし。気にしないでいいよ」
ひらひらと手を振って謝罪は要らないと伝える。
僕だって、傍にこんな態度の奴がいたら嫌だって思うんじゃないかな。そっちの立場になったことないけど。皆同じような態度取るし、それが普通で当然のことなんだろう。
「そんなのダメです。誤解は解かないと。頑張っている人が認められないのは間違ってます」
「そうですよ。それに、殿下はもう1つ間違えてますね。言われ慣れているから気にしないでいいという考え方は駄目です。間違った評価を受けたならきちんと反論して覆し、正当な評価を得ることは大切なことです」
両側から、意外な方向で諭されて固まってしまった。
正当な評価、か。
「正当な評価を受けるには、自分の作品を生み出してからじゃないと、と思うんだけど」
目を眇めて、ジェフリーが微笑んだ。ガイも一緒になって微笑んでる。
「そうですね。そろそろ、ご自分が描きたいものを一度描いてみるもの良いころ合いかもしれませんね」
そういわれて、僕はジーっと空になったカップを見つめた。
今の僕なら、ちゃんと描けるだろうか。
あの理想郷を。
「で。結局、あの絵じゃないものを描いたんですね」
僕が1か月掛けてようやく描き上げたそれは、部屋の隅に転がっていた煮溶かす前の膠の束や、テレピン油の入った瓶とか、顔料が入っていた空き瓶と絵具が入っていたチューブのしぼりきった残骸や手や筆を拭いて絵具で汚れたウエスが山盛りになってるバケツとか、柄に焦げ跡が残る小鍋とか。なんというか絵を描くのに必要なあれこれの山だった。
「文句あるのか」
「へたれ」
「お前、不敬すぎるだろうが!!」
本当は僕だってあの理想郷を描くつもりだったのだ。でも、そこに目がいったら離せなくなった。
絵を描くために必要な材料と、もう使い終わって捨てられるのを待つ残骸。
どうしても残しておきたくなったのだ。そして気が付いたらこれが描き上がっていたのだ。
僕の、最初の作品として。
「理想郷からは程遠い。まさに現在の殿下の立っている現実の世界ですね」
素敵な絵ですね、と言われたけど、なんだろう。この取ってつけた感。
「ムカつく」
ふふふ、と笑って、ジェフリーが僕の頭をぐりぐりと撫でた。
もっとムカついた。
次は絶対にぎゃふんと言わせるような凄い作品を描き上げる。そう心に決めた。




