第九十八話 春の満ちる影 9
早苗の中で、戦争は再び起こる可能性をずっと孕んだままだ。
水爆実験の被害を受けた漁船。
ただ、魚を獲るだけの人が、戦争の準備に巻き込まれている。
十年前の戦争の記憶が残る人々は、穏やかになりつつあった水面に、石を投げ込まれたかのように、揺れ動いた。
魚を売る店と寿司を握る人たちがその的になった。ただ、日々の営みを送っていただけだったのに。
原爆も水爆もよそから投げ込まれた。
投げ込んだ相手は、早苗たちの手が届かない所にいる。
いつ、次が来るのか、誰にも分からない。
本当に、もう無いと言えるのか?
本当に、もう二度と、稔は召集されないのか?
死なないのか?
それは誰にも分からない。
早苗の力の及ぶ所なぞ、歩いていける距離がせいぜいだ。
汽車で、船で、飛行機で連れて行かれてしまえば、もう追いかけられない。
まだ四十にも間がある稔。
敗戦までに沢山の男たちが死んでしまって居なくなっている。戦争が始まれば、男の数が足りないと、多少の歳など頓着せずに集められてしまう。
させるものか。
早苗は下駄を包んでいた新聞紙を見た時、湧き上がる恐怖と怒りがあった。
まだ、終わらないのか、と。
早苗から稔を奪うものは、いつでも遠く高いところからやってくる。
死なせない。
奪われてなるものか。
それは早苗にとって、相手が女でも戦争でも同じことだった。
稔が生きていてくれれば、それでいい。
早苗を愛する稔こそ、早苗の全てだ。
早苗は、娘たちの描かれた、額もついていない油絵をそれぞれひと撫ですると、うっそりと艶然に笑みを浮かべた。
「誰にも奪われたり、しないわ。」
奪われないために、早苗は死力を尽くす。
買い物から帰って来た稔は、出先で出版社に電話を掛けていた。
「明日、竹中さんが取りに来るから。俺も一緒に運んで、その後に出版社に置いてあるものも合わせて全部確認してくるよ。」
「明日は呑まないで下さいよ?」
「明日じゃない日に、呑むよ。」
「…稔さん?」
「ああ、怖い怖い。明日からは画集の印刷に向けてみんな忙しくなるから、呑み歩く余裕はないよ。」
畳の上で適当な大きさに梱包紙を切りながら、稔は早苗の顔を見上げて言った。
「今度は展示会が終わったら呑んでいいだろう?」
首を傾げて上目遣いで稔に言われれば、早苗も首を横に振れなかった。
桜の花が綻ぶまであと僅かな春の午後、ふたりは仲良く絵を包む作業に勤しんだ。




