第九十七話 春の満ちる影 8
早苗の目の届かない所に稔が行ってしまうのは、堪え難い事だ。
召集された後、四年以上帰って来なかった。
その間に、モデルの娘たちが今、持ち得ている若さと美しさを早苗は失っている。
稔の復員後に再会したふたりは、捨てられた犬猫のようにぼろぼろの状態だった。
服も栄養も足りていない餓鬼のようなふたり。
周りの人間も全て似たようなものだったから、何も思わずに、ただ稔と一緒にいる事だけに注意を傾けていた。
二度と早苗は稔から離れることは無い。
離れることが出来ない。
あの稔のいない日々をもう一度過ごすと思うだけで、全身に瘧がかかる。
早苗の中の稔は、生きるための手綱だ。
だが、どれほど手に腕に巻きつけても、するりと解けてしまいそうな危うさを持った、頑丈だが滑らかすぎる綱だった。
「ずっと早苗のそばに居るよ。」
夜毎口にしてくれた稔。
嘘を言ってはいない。
稔は本心から、そばに居ると言ってくれる。
でも、それは本当に出来る事だろうか。
特殊爆弾と言われたものが、ピカドンで、原爆で、戦争の終わりに落とされたものだと、みんなが知る事が出来たのがここ数年。
その隠されていたものが、それからもずっと、今も製造され続けている。
敗戦でようやく戦争が終わったと息をつく暇も無く、ただ食べ物を探して死んでいった人たち。
戦争で人が死に、空襲で人が死に、原爆で人が死に、敗戦の後にもまた人が死んだ。
戦地から戻れなくても、戻っても地獄。
どこまでも、抜け道のない飢餓。
人によって違うと思い始めたのは、ごく最近だ。
空襲で焼けなかった久間木たちを見ていると、早苗の見た戦争は何だったのか分からなくなる。
早苗の見た戦争は、稔を早苗から奪い、たくさんの人を早苗の前から消し去った非情なものだ。
珠代も同じで、情けを抱いた相手はすべて死んでしまったと、心を痛めていた。
早苗は戦争が嫌いだ。
憎んでいると言ってもいい。
赤い紙一枚で、稔を早苗から取り上げて、奪い返す方法が存在しない。
稔が、怪我をすれば帰ってくる。
かつては、その期待を抱いた自分を恥じていた早苗。
それももう過去のことだ。
国のために兵隊として戦争に出られる事を誇りと思えと、誰もが口にした時代に、早苗もある程度の影響を受けている。
その呪縛が解けた今なら、怪我をして帰ってくる稔の姿を想像してしまう。
怪我をした稔は、早苗の元に戻らざるをえない。そして、早苗の世話が無ければ生きていけない稔に喜びを感じただろう。
誰にも奪われない、何処にも行かない稔。
それは早苗の理想の形なのかもしれない。
早苗は娘たちの絵を指先でなぞりながら、薄々気が付きながらも、敢えて目を凝らして認めていなかったことに、思考の焦点を当て始めた。
早苗は正月の後、ずっと稔に描かれていない。
正月に久間木の家へ挨拶に行く前に、一枚描いたきりで、それ以降は、稔は早苗を描いていない。
もう桜も咲く頃だというのに。
鉛筆一本で描ける素描一枚すら、描かれていない。
そして、それに不服も不満も抱いていないことに、早苗は気が付いていた。
稔がそばにいれば、それで充分なのだと、早苗は気が付いてしまっていた。




