第九十六話 春の満ちる影 7
早苗が着物を縫い上げた頃と同じくして、稔もすべての絵を描き上げた。
外の桜の木には、ふっくらとした蕾が色付いている。
その間にも早苗宛に、送り主が書かれていない洋封筒は届き続けていた。
稔宛の明日花の手紙には、返事を出さずに済ませていると、不快な手紙が毎日欠かさず届くようになった。その上、稔の絵を真似し始めたのか、なんとなく絵が似てきている。
早苗はぞっとした。
この頃になると、素描を描いているのは、明日花の継母ではないかと早苗は気が付き始めた。
稔が肖像画の依頼を断る事を止めて、保留する対応に変えてから伊東の名前での申し込みが入った。
「いつまでも、待っています。」
恋人へ送るような言葉の入った注文の手紙。
毎日届く洋封筒と同じ筆蹟。
早苗は破り捨てたい衝動を抑えて、予約依頼の紙の束に差し込んだ。
早苗は縫い上げた着物をたとう紙に入れて、久間木の家へ持参した。
寿栄子に確認してもらい、その後はかつ子を交えて久間木家の着物の話になった。
「かつ子は七五三も終わっているから。着物を着ないでしょう。」
「お正月になったら着るもの!」
「でも、これ、おばあちゃんの頃の着物よ。」
寿栄子は箪笥から出した着物を広げた。
「かつ子が着るにはちょっとお姉さんじゃないかしら。」
「そんなことないもん。」
かつ子は、髪を触りながら抗議を続ける。
「かつ子だって、早苗さんみたいに着物を着て、髪を伸ばしたいの!」
「あらあら。」
早苗は思わず声をあげて笑う。
「かつ子ちゃんにそんな風に思って貰えるなんて嬉しいわ。」
「もう、髪も梳かさないのに、何を言ってるの。スカートよりズボンの方がいいくらいなのに。」
「可愛くないから、いや。」
ぷんっと、顔を逸らすかつ子を見て、寿栄子は呆れたようにため息をついた。
「今度から学校ではお姉さんよ、と言ったら、お姉さんらしい服がいいって言い出して。
手が空いたらでいいんだけど、姑の着物をかつ子が着られるように直して欲しいの。」
「肩上げしましょうか?」
「ここ以外に蔵の奥にもっと子ども向けの着物があったと思うの。探してからお願いしようと思うのだけれど。」
「ええ、構いませんよ。じゃあ、かつ子ちゃんの丈を測らせて下さいね。」
それを横目で聞いていたかつ子は、自分の着物を誂えてもらえると大はしゃぎで喜んだ。
早苗は、寿栄子とかつ子の親子を見つめて、にっこりと微笑んだ。
少しだけ、早苗の胸の奥が温かくなったように思えた。
家に戻ると、稔が出掛けていた。
描き上がった絵を運ぶ為に、紙や紐を買いに出ると、書き置きがあった。
早苗は稔の仕事部屋の方へ行き、イーゼルに置かれたままの娘たちの絵を眺めた。
最初に描いた冨田の絵と同じく、どこか男たちへの色を含みながら、手折られる前の初々しい明るさがある絵ばかりだった。
早苗は乾いた絵の部分を撫でる。
これは稔の絵だ。
毎日、何通も届く素描の絵は、自己陶酔の気配が強く、だんだんと女の虚勢が鼻につき始めていた。
自分がどこまで美しいのか、早苗に知らしめようとしていた。
それは、おそらく、継子の伊東明日花に向けての意識も含んでいる。
早苗よりも前に継母として会った伊東明日花に、何らかの敗北を感じたのだろう。
その苛立ちが稔の妻という立場も相まって、早苗に憎しみをぶつけてきている。
手紙だけで済むならばと、放っておいているが、稔には身の危険が及んでいないのだろうか。
早苗は火事を見た日から、ずっとぐるぐると考え続けていた。




