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第九十五話 春の満ちる影 6

 早苗は表面上は穏やかに暮らし続けた。


 稔の世話を焼きながら、モデルの娘たちと話をし、合間に着物を縫った。


 小さな針と上質な布目だけが早苗の視界を(うず)める。


 新しい針はするすると布目に入る。


 一日では変わりのないような作業も、日を重ねることで形になっていく。

 早苗と稔の作業は本質的に似ているのかもしれない。早苗はつらつらと考える。


 人から見ても分からないような所にまで手をかける。その積み重ねを惜しまずにやれることが、この夫婦の似た所なのかもしれない。


 心無い人には要領が悪いと言われるが、そのようにしか出来ないのだから、仕方がない。


 早苗はお針子時代に、女将さんの仕込みもあって要領良くこなすことも覚えたが、基本的に根を詰めてやる性質だ。


 いつも世話になっている久間木家の嫁の寿栄子からの頼みだ。出来るだけ丁寧に仕上げて、寿栄子の顔を潰さないようにしてやりたい。


 早苗はちくちくと針を動かす。


 その(かたわ)らで、稔も絵筆を動かす。


 細い筆で入れる色は誰にも気付かれないかもしれない。それでも描いている稔には分かるのだから、この色を抜いて仕上げるわけにはいかない。


 ここには居ない兵隊仲間のために、最善を尽くして絵を送りたい。


 ほんの僅かでも、喜ばれるように。


 稔は墓前に供える心持ちで、絵筆を動かしている。









 洋封筒が二通届く。


 早苗は送り主が書かれていない方を先に開ける。


 いつも通りの便箋と素描が一枚ずつ。


 もう一通の方を開けようとして、手が止まる。


 筆蹟は違うが同じ封筒。


 そして、送り主は伊東。


 宛名は稔。


 早苗は宛名と送り主の両方が書かれた洋封筒をそのまま稔に手渡す。

 (はさみ)も併せて渡す。


「伊東さんって、明日花さんかしら。」

「そうかもしれないな。」


 無言で開封を促す早苗に対して、素直に従う稔。鋏で封を切る。


 封筒の中身の便箋を広げると、稔はすぐに早苗に内容を伝えた。


「この間、タクシーで送った事へのお礼状だ。お母さんがお礼をしたいから来て欲しいって。」


 早苗は表情を消して稔に言った。


「行かなくてもいいわよ。」


 便箋を見たままの稔は、早苗の様子に気がつかないまま、恬淡(てんたん)な声で答えた。


「行く余裕もないから。放っておくよ。

 今月中に仕上げる予定で出版社の方も準備しているから。絵を描き上げるまで、出掛ける気は無いよ。」


 早苗は、ほうっと肩の力を抜いた。


「ああ、まだひと月は松葉杖生活らしいよ。学校は行けるようになったけれど、春休みだから暇になりそうだってさ。」


 読み終わった便箋を封筒に仕舞うと、稔は早苗に返してそのまま興味を無くしたように筆を手にした。


 早苗は返された手紙が毒物のように思えたが、集中し始めた稔の邪魔はしたくなかったので、無言で部屋を出た。


 (かまど)近くに置きっぱなしの手紙と、稔に返された手紙を見比べてみる。


 便箋も封筒も一緒だが、筆蹟が違った。


 片方が伊東明日花の筆蹟ならば、もう片方の手紙の筆蹟は、きっと肖像画を依頼した母親の方の伊東だ。


 わざわざ同じ封筒を明日花に使わせるあたりに、早苗への悪意を感じる。


 もし、早苗が今までの手紙を取っておいても、同じ封筒と便箋というだけでは、問い詰めても偶然だと言えば終わる。


 小賢しい。


 早苗は竈に投げ込まずに、封筒を茶箪笥(ちゃだんす)の引き出しに仕舞った。












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