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第九十四話 春の満ちる影 5

 布団の中で、目を覚ました稔と話をする。


「うん、出版社の打ち合わせの後に、画材屋に行こうとしたら、伊東明日花さんがいてね。」


 稔は早苗の(ほど)けた髪を指先で()きながら、答える。


 優しい指先の感触に、早苗は目を細めながら相槌を打つ。


「うん。それで?」

「松葉杖が壊れていてね。一緒に来ていた明日花さんのお母さん、伊東さんは先に帰ってしまったそうなんだ。

 それで、タクシーを拾って送り届けて来た。」


「その後は?」

「タクシーから降りて、玄関まで届けたら、すぐにお手伝いさんが出て来てね。タクシー代を払ってもらったよ。そのまま、同じ車に乗って画材屋まで戻ったよ。」


「家の中には入っていないのね?」

「まさか。慣れない松葉杖の外出で疲れていたのに。

早く休ませてあげた方がいいよ。」


「そう。稔さんは、優しいわね。」


 早苗はうっとりと目を閉じて、稔に体を寄せた。


「朝ごはんが、遅いけど、構わないかしら。」

「編集部長に呑ませられた酒がまだ残っているから。もう少し遅くてもいい。」


 くくくっと笑いながら、稔は早苗を抱き寄せた。


 雨戸が閉められたままの薄暗い布団の中、早苗は稔に撫でられるまま、猫のように目を細めた。







 その日の夕方、最後のモデルが藤村家を訪れた。


 これで十五人全てだ。


 最初は二十人を予定していたが、稔の絵の繊細さと、娘たちの可憐さを出来る限り再現させたいという意向がお偉いさんたちから出た為、収録作品数を減らして画集全体の質を上げる事になった。


 画集の単価は抑えたまま、紙を上質なものにして、腕のいい印刷工に頼むらしい。

 充分に立派な画集になると、稔は胸をふくらませた。


 稔は、今後の予定を打ち合わせし、画材屋に向かう途中、松葉杖の壊れた伊東明日花を見つけた。

 タクシーで伊東明日花を送り届け、画材屋で買い物を済ませて、さて帰ろうかと外に出たところを編集部長につかまった。


 そのまま、他の編集部員も合流して梯子酒(はしござけ)に。


「昨夜は兄と一緒に飲まれていたそうですが、藤村先生はお元気ですね。」

「はは、竹中くんは二日酔いが酷かったのかな。」


「ええ、お酒はコップ二杯が限度だと常々言っているくらい。

 それなのに、藤村先生は一升瓶二本も空けてたって、何度も言ってました。」

「次があれば、竹中くんには気を付けて酒を勧めることにするよ。」


 最後のモデルとして、藤村家に来たのは、出版社から絵を取りに来る事が多い竹中の妹だった。


 冨田の姪を描いた絵を褒めていたのを聞かれたらしく、「じゃあ、お前の妹も描いて貰えばいい」と、決められたらしい。


「お兄ちゃんったら、お前を描いてもらうのが烏滸(おこ)がましいほど、綺麗なモデルばかりだったって、言わなくてもいい事まで。」

「いやいや、中々いいモデルだよ。」


 稔は、昨夜の酒で竹中をだいぶ気に入ったらしく、竹中の妹とも話を弾ませている。


 早苗は酒が呑めない人の気持ちが良く分かるので、竹中に深い同情を抱いた。


「竹中さん…お兄さんは、今日はお仕事に行かれたのかしら。主人は一緒に呑んで、だいぶ楽しかったようで。

 この人と同じ席でお酒を呑まれると、皆さん翌日が大変らしいの。」


 早苗は稲川の醜態を思い出して、眉を顰めて言った。


「あー、えーと、午後には仕事に行きました。学校から帰ったら仕事に行っていたので、たぶん、大丈夫ですよ。」


 嘘がつけないのか、素直に答えた。


 早苗は「お茶をどうぞ」と勧めながら、稔を見て「めっ」と子どもを叱る様に言った。


 稔は首をすくめて、返事とした。












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[一言] そういうことだったのか(ほっ)。
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