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第九十三話 春の満ちる影 4


 早苗はしゃがみ込んだ体勢のまま、じっとしていた。


 そろそろ足が痛くなってきた頃に、遠くから走ってくるような気配と、何かを引き摺る音が聞こえた。


 早苗は顔を上げて、目を擦った。


 焦点の合わない目を眇めていると、しゃがんだ早苗と同じ目線の高さで走り込んでくる茶色いもの。


 犬だ。


 興奮した様子で公園に走り込んでくると、そのままぐるぐると回り、「わんっ!わんっ!」と吠え続けた。


 早苗を見つけても近寄ることもせずに、公園の中を駆け回っていた。


 早苗はそれをただ眺めている。


 どうやら、さっきの火事の起きた家で、もがいていた犬のようだった。


 首輪はつけたまま、紐が焼けたのか引きちぎったのかして、逃げてきたのだろう。

 だが、火事を間近に受けての興奮が止まらないようだ。


 はっはっはっと息を荒げたまま、紐を引き摺りながら、何処かへ走り去っていった。


 早苗は何か安心した心持ちで立ち上がると、はたはたと着物を叩いて身支度を整えた。


 少し足が痺れている。じんわりと足の感覚が戻るまで、そのまま立っていた。


 ぽつんと立つ早苗の所から、黒煙はもう見えなかった。白くくすぶる煙が僅かに見えるだけだった。


 早苗は、足の痺れがすっかりなくなると、消防ポンプ車が向かう先とは逆の方へ歩き出した。


 最寄り駅を探して、電車に乗って家に帰る為に。







 早苗は家に帰り、洋封筒の中身を確認して、竈へ投げ込むと、夕飯の支度をした。


 作り終わって日が暮れても、稔は帰って来ない。

 早苗はひとりでは食べずに、稔が帰って来るのを待った。


 本当は夕飯を食べたくなかった。


 火事の匂いが鼻について、何かを口にするのも億劫だった。

 早苗は炬燵に入って座っていたが、こてん、と横になった。


 そのまま動かずに目を瞑っていた。


 何も考えたくないのに、頭の中には取り留めのない事ばかりが浮かんでは流れていく。


 三月の火事は、早苗に嫌な記憶ばかりを思い出させた。

 あの炎の中で、父親は息絶えたのだろうか。


 どこまでも続く、焼け野原の中、ひとりで身元確認のために立ち尽くして待ったあの日。


 父親と義母の姿は、変わり果てていたが、共に横たわっていた。


 死ぬ時を共に出来た夫婦。


 早苗と稔は、同じ時に死ねるのだろうか?


 早苗の頭の中では、稔の隣にいる女は早苗ではなく伊東明日花の顔をしていた。


 若く、美しい早苗より上等な女。


 微笑みあう二人は、充分に絵になった。


 早苗は覚えず、涙が目尻を通ってこぼれるのを感じた。

 畳に押し付けた頬は、じんわりと目尻下周りの畳が濡れた感触を早苗に伝えてくる。


 何も食べたくない。


 このまま眠らせてもらおう。


 早苗は目を閉じたまま、少し身を丸めると、深く息を吐いてから眠り始めた。







 翌朝、目を覚ますと早苗は布団の中で、隣には稔が眠っていた。


 早苗はぼんやりと遅く帰ってきた稔に襦袢姿にされて、布団に運ばれた事を思い出していた。


 酒の匂いが篭っている。


 昨夜はだいぶ呑んできたようだ。


 早苗は稔が隣にいることに安心して、また微睡(まどろみ)の中へ戻っていった。


 今、稔は、早苗の隣に、ちゃんと居る。













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― 新着の感想 ―
[一言] くっ! 帰ってきたのは、まだいいのだ、が……!?
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