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第九十二話 春の満ちる影 3

 早苗は四方焼きを食べ終えると、店の方へお礼の声を掛けて、また歩き出した。


 車が時々横を通り抜ける。子どもたちが歓声をあげて走り抜ける。


 早苗は太陽の位置だけを頼りに歩き続けた。


 その時、車が早苗の横に停まる。


 早苗は息を止めて、車の方を振り返った。


 車からは見知らぬ男たちが出てきた。早苗の方なぞ見る事もなく、近くの店へ入っていった。


 早苗は口元をきつく結ぶと、早足でその場を去った。


 珠代を期待していたのだ。


 今さら、何を。


 早苗は見知らぬ街並みがじんわりと涙で歪むのに気が付いた。


 一度立ち止まり、真っ直ぐに下を向くと、何度かまばたきをして涙を落とした。そして、すぐにまた歩き出した。


 早苗は自分でもどうしていいのか、わからなかった。


 このまま、知らぬ街並みに溶けてしまえばいいと思いながら、歩き続けた。


 それでも早苗の姿はどこまでも早苗のままであり、知らない女に変わることはなかった。


 早苗は知らない軒先から、知った醤油の香りと煮物の匂いを嗅いで、もうそんな時間かと急に疲れを覚えた。


 もう郵便も家に届いているだろう。いつ来るのかと、神経を張る必要もない。


 早苗は帰り道を探そうと回りを見渡した。

 その時、夕方の色を帯び始めた街並みの中から、黒い煙が立ち上っているのを見つけた。



 火事だ。



 早苗は同じように煙に気が付いた人たちと一緒に、煙のある方へと進んでいった。






 


 ガラスの割れる音が響く。


 燃え上がる炎に耐えきれず、ガラスが音を立てて割れているのだ。


 赤赤と火に包まれた家は近付くだけで、熱い。


 人と人の間から、早苗は燃え盛る家屋を見ていた。


 時々、ごおっと音を立てて、火勢が増す。


 顔に熱を感じたまま、早苗は息を呑んだ。


 家屋の近くに人は居ない。


 軒先に繋がれたままの犬が盛んに吠えては、首輪から頭を抜けさせようと必死に頭を振る。


 人は中に居ないのだろうか。


 燃え盛る家にも、逃げようともがく犬にも、誰も近付けない。


 窓から、扉から、赤い炎が吹き出した。


 防火水をかけたのか、家の近くにバケツが転がっている。まったく消火の役に立たなかったようだ。


 気づけば隣の家からも炎が出ている。


 駆け付けた消防団の男たちが早苗たちに避難を呼びかける。


「危ないから下がって!」

「消防ポンプ車が来るから、道を開けるんだ!」


 首を伸ばして火事を見ようとする人たちから早苗は離れて、人の波に逆らって歩き出した。



 誰かが助けを求めて叫んでいる。



 早苗は俯いて走り出した。



 着物の裾をはたはたと広げながら、止まる事なく、走る。



 息を切らせながら、その場から少しでも離れようと必死に走った。



 そして、知らない公園に来て、ようやく足が止まった。



 遠くでは、黒い煙がもくもくと昇っているのが見える。

 早苗はしわくちゃになった買い物袋を袂に入れ、胸を押さえてしゃがみこんだ。


 膝に頭を乗せる。



『早苗さんは火が怖かった時は、ないの?』



 珠代の声がよみがえる。



『空襲で焼けたのを見なかったのかしら。』



 焼けるのを、燃えるのを、見た。



 深川の親たちのいる方向が真っ赤だった。



 燃えていると分かっても、それ以上のことが出来なかった。


 遠くにある火の下で、見知った人たちが燃えていた。



 早苗は着物の膝頭の部分がじわりと濡れてきているなと、無理にでも客観的に自分を見ようとした。


 それに何の意味もないことは、溢れ続ける涙が示していた。


 早苗は涙をこらえようとして、堪え切れずに泣き続けた。





 遠くにあった炎は、いつの間にか自分の周りにやってきて、あっと言う間に全てを呑み込んでいた。


 隣組の人たちと消火をしようと、訓練通りに動いても、炎はちっとも減らなかった。


 空から落ちてきた火は、どこまでもどこまでも早苗たちの家を燃やした。


 逃げようとした時には、誰も知っている人は居なかった。


 早苗は闇雲に逃げて、あちこちを火傷しながらもどうにか炎から逃れた。



 どうして逃げられたのかは分からない。



 誰かが助けてくれたのかもしれないし、誰もいなかったのかもしれない。



 ただ、結果として、早苗は生き残った。



 ただひとり。











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― 新着の感想 ―
[一言] 早苗えええええ!!!!!(ブワワッ)
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