第九十一話 春の満ちる影 2
早苗は通りの向かいを凝視して立ち止まった。
稔にくっついている女は、伊東明日花だ。
早苗は手に持った小さな買い物の袋をぎりっと握りしめた。
伊東明日花は、首を傾げて稔を見上げては何か言った。稔はそれを受けて明日花に顔を向けて何かを言っている。
一体何を。
早苗が身を乗り出そうとした時、通行人の体が当たる。
はっとして、早苗はぶつかった人に頭を下げると、電柱の陰に隠れるように身を避けた。
また視線を通りの向かい側へ戻せば、稔と明日花がタクシーに乗る所だった。
二人はすぐに乗り込むと、そのまま早苗の目が届かない距離へと行ってしまった。
早苗は呆然としていた。
出版社へ行ったはずの稔が、何故ここで伊東明日花とタクシーに乗って行ったのか。
早苗は自分が見たものを信じられない思いでいた。あれは別の誰かだろうか。
だが、早苗がこの距離で昼日中の時間に稔を見間違えるわけが無い。
早苗は両手を胸元に強く押し当てると、震える足を少しずつ運んだ。
とにかく、ここから離れたい。
早苗は郵便の届く家からも、稔と明日花のいた所からも、離れたかった。
幸い三月の陽気はさすらい歩くことに向いている。
早苗はしばらくは俯いたまま、とことこと歩き続けた。
知らない街並みの中を歩き、時々子どもの声に顔を上げて、だんだんと春の匂いを感じ始める。
知らないながらも美味しそうな菓子屋を見つけて、ひとつ四方焼きを買い求めた。
行儀が悪いと思いながら、店先の腰掛けに座り、もぐもぐと食べる。
固まっている餡子が口の中にほろほろと崩れて、甘さを寄越してくる。
早苗は少しだけ強ばった体が弛んだように思えた。
餡子の味が佳乃の店と違うのだなと当たり前のことを思った。
早苗は佳乃と顔を合わせづらいと思っている事に、この時ようやく気付いた。
母親像を勝手に当て嵌めていた佳乃が、女として求められて相手と一緒になろうとしている。それは喜ばしいことだと、早苗と佳乃の間柄なら思えるはずだ。
それが早苗には出来なかった。
すみれと一緒で、佳乃が女として男の隣にいることは、耐えられないことだった。
存在しない理想の母親像が佳乃である早苗にとって、それは不可侵の神聖な存在だった。煤やシラミにまみれながらも、小さなすみれと達郎を抱えて懸命に生きる佳乃は、早苗の中で神のようなものだった。
どれほどの歳を経ても、きっと佳乃なら二人の子どもを第一に優先して生きていくのだろうと思っていた。
男の手を取ることもなく。
それは早苗の押し付けで、願望に過ぎなかった。
それでも、早苗の中で一度見た甘い夢の感触は、簡単に抜けようとしない。
現実の佳乃にとっての幸せと、早苗の中の佳乃という聖像は、早苗の方が歪んだ感情だと自覚していた。それでも、折り合いがつけばまた会いにいけるだろうと、早苗は想像もつかない未来の自分を思った。
女として笑う佳乃を受け入れる?
早苗は豊子の見せた柔らかい笑みを思い出した。
あの柔和な笑みは恋を覚えた女の顔だった。その顔をしている時は、とても美しいが相手の男以外には立ち入れない世界を築いている時だ。
相手の男でも何でもない女の早苗には太刀打ちが出来ない。
早苗は稔の唯一の女である事を拠り所にして、母親にも義母にも受け入れられなかった自分を肯定する事が出来た。
早苗と稔だけの誰も他には入れない二人だけの閉じた世界で、早苗はようやく自分の存在を認められた。
そこからなら、受け入れられずに終わるかもしれない、女同士の世界にも手を伸ばすことが出来た。
早苗の世界は、全て稔あってのもの。
その早苗の世界の基盤が、壊れようとしている。




