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第九十話 春の満ちる影 1

 通り過ぎる家々から夕飯の煮炊きの匂いが漂う頃、早苗は帰宅した。


 玄関の引き戸を開けて、土間へ入ると何か燃えた匂い。


 留守中に稔が煮炊きをしたのかと竈と七輪の方を見ると、竈の扉が僅かに開いている。念の為、火かき棒を使って扉を開けると、灰の上に燃え残った紙。


 早苗が近頃の見慣れたものになった洋封筒の燃え残りだった。

 早苗は取り出そうと手を伸ばしたが、寸前で手を拳に握りしめ、触れる事なく、燃え残りはそのままに扉を閉めた。


 早苗の中で、はっきりとしない悲しみが広がった。


 疑いではない、と思う。


 だが、何故、稔は早苗宛の手紙を燃やしたのか。


 いつもこの洋封筒は、早苗宛の名前で届く。中身はいつも同じ便箋と素描の紙。


 稔は知っていたのだろうか?


 早苗宛に届くこの手紙を。






 早苗の中で、処理が仕切れていない佳乃への感情と、稔への微かな疑惑が混ざり合った。


 早苗は手紙について稔に尋ねる事もなく、夕飯の支度を始めた。


 稔は機嫌の悪さが直り、いつも通りに微笑んで夕飯を食べる早苗にほっと胸を撫でおろしていた。








 それから一週間ほど、藤村家はいつも通りの暮らしが紡がれた。


 稔のモデルが訪れる他は、客の来ない生活。早苗は絵を描く稔の傍らで、着物を(こしら)える内職に精を出した。


 そして、稔は八割ほどの枚数の絵を描き上げていた。


「早苗、一度出版社へ行ってくるよ。思ったよりも早く終わりそうだ。」


 早苗は嬉しそうに笑う稔を見て、目を細めた。


「良かったわね、稔さん。」

「今まで渡した絵は、それなりに評判が良さそうだ。

 画集の販売と展示会を同時に開催してもいいと言われていたんだ。」


 早苗は手元にある縫い物を片付けて、稔の出掛ける用意を始めた。


「それじゃあ、今日はお昼は外で?」

「そうだな。たぶん、夕飯までには帰れると思うけど。」


「まだ全部描き終わってないんですから。お酒は帰ってから少しにして下さいね。」

「う、ああ、分かったよ。」


 稔は編集部の人間と呑んでこようかと思っていた事を見抜かれたように、首をすくめた。

 稔は出版社の帰りに画材屋へ行くかもしれないと早苗に行ってから出掛けていった。


 早苗は縫いかけの着物を手に取り、針を持った。


 しばらくは黙々と裁縫を続けたが、ぴたりと手が止まった。

 少し開けた障子の向こう側から、雀の鳴き声が聞こえた。


 巣作りでも始まるのだろうか。


 早苗はぼんやりと外を眺めた。







 ひとりで昼飯を済ませると、早苗は身支度を整えて、糸と針を買いに出掛けた。


 頼まれた着物の反物は、思ったよりも上等だった。早苗も出来る限りの丁寧さで縫い上げようと、針を新しくすることにした。


 大して代わり映えはしないだろうが、なんとなく外へ出たくなった事が一番の理由だった。


 午後に、ひとりで家に郵便が届くのを待っているのは、堪え難い気持ちがあった。


 どうせ何も出来やしない。


 あの手紙にはなんの威力もなかった。


 そのはずが、じわりじわりと早苗の平穏な気持ちを撫でては、その感触だけを残していく。


 積み重なる不快感。


 早苗は珠代も豊子も来ることの無い家で、洋封筒だけが届く生活を送り続けていた。


 そんな気持ちもあって、早苗はいつもの店よりも遠いが大きな手芸屋に行くことにした。


 普段来ることのない、人の多い駅から歩くこと暫く。


 目当ての店をいつも以上に丁寧に見て回る。買う物は決まっているので、手に取って眺めるだけ。


 早苗はたくさんの商品に囲まれて、頭がぼんやりしたまま会計を済ませると外へ出た。


 このまま別の店も見て回ろうかと迷った時、稔の姿を見つけた。


 広い道路の向こう側に、稔と女の姿。


 女は稔の腕に両手を回していた。


 ぴったりとくっついている。














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― 新着の感想 ―
[一言] み、稔うううううう!!!!!!
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