第八十九話 雨水による春泥 9
早苗は持ち帰り分が皿の上で冷めるのを待つ間、餡子入りの粉焼きをご馳走になった。
箸を入れるとほんわりと湯気が立つ。
少し熱めのまま、口の中へ入れる。甘味と潰した豆の風味が口の中に広がる。
「この餡子、いつも美味しいと思ってたけど、佳乃さんが作ってるの?」
早苗がお茶を飲みながら、佳乃に聞くと、ほんの僅かな間が出来た。
「いや、それは作って貰ってて。」
「高くないの?この餡子の仕込みは、大変でしょう?」
「その、材料費と、ここでの呑み食い代でいいから、まあ、そんなには。」
早苗は様子のおかしい佳乃をじっと見つめた。
かたかたと入り口の引き戸が風の音を立てる。春先の風が始まりつつある。
佳乃は鉄板を何度か焼けた色の布で拭くと、早苗から目を逸らしたまま答えた。
「さっきのお客さんが、和菓子屋の人でさ。餡子を作ってくれているのが、その人。」
「佳乃さんのいい人なの?」
純真な子どもの様に、早苗は聞いた。
「いや、まあ、その特に何も無いけど。」
「何かあってもいいと思っているの?」
「それは、すみれと達郎がいるから、馬鹿な事はしないけどさ。相手も男寡も長いから、今さら急ぐ気持ちも無いって言うし。」
「そう、なのね。」
早苗は残りの粉焼きを食べると、さっさと冷ましていた粉焼きを自分で包んだ。
「夕飯の支度があるから、今日はもう帰るわね。」
「あ、ああ、そんな時間かい。またおいでよ。」
佳乃はカウンターから出て見送りをしようとしたので、それを早苗は顔を振って止めると、ひとり店を出た。
外は午後の暖かさに満ちていた。
早苗は脇に抱えていたケープを羽織ろうとしたが、思いがけない暖かさに羽織るのをやめ、粉焼きと一緒に手に持ったまま歩き出した。
駅に向かう商店街の街並みを早足で歩く。
早苗は佳乃がいずれはあの常連客と一緒になると確信してしまった。すみれが嫌がれば、正面きって再婚の反対に加担するつもりだったが、それは無いのだと思った。
きっとすみれが大きくなるまで待ってからあの二人は身を固めるのだろう。決して勢いや情動で結婚を進めることはないだろう。
それは立派な事で、すみれにも優しい親たちになるだろう。
早苗にはそう思えた。
そう思えてしまったからこそ、泣き出しそうになった。
佳乃がどこまでも早苗にとって理想的な母親像であっても、佳乃は早苗の母親ではなかった。
珠代に娘の代わりだと言われた時に、本当は嬉しかった。早苗を捨てていった実の母親よりも、きっと珠代の方が早苗を愛してくれる。
佳乃も、すみれと達郎の母として同じ立場になろうとした早苗の事を家族のような気持ちで受け入れてくれていると思えた。
だが、結局は離れていくのだ。
珠代は実の娘の元へ。
佳乃は、すみれと達郎の母親を終えれば、あの常連客の元へ。
早苗の望む母親たちは、皆、早苗から離れていく。
早苗は春の穏やかな空気の中、ひとりだけ雨に降られた人のように、足早に歩き続けた。




