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第八十八話 雨水により春泥 8

 早苗は何気無い様子を装って、質問してみた。


「それじゃあ、すみれちゃんは佳乃さんが再婚することになったら、どうする?」

「え、嫌よ、そんなの。」

「でも、すみれちゃんにもお父さんは必要だって言う人もいるでしょう。」


 それは、かつて早苗も言われた言葉。


 母が家を出てからすぐに、誰かが親切な顔をつけて言ってきた言葉だった。その時に早苗はざわりと不快な感触を受けたはずなのに、同じような事をすみれに言っている。


 口に出してからその不愉快さに気付き、早苗は言った事を後悔した。


 不快になったのかどうかは分からない顔で、すみれは首を(かし)げると答えた。


「だって、あたし、お父さんって知らないもの。

 居た方が良いとか言う人は、きっとお父さんがいる人なのよね。でも、あたしはお父さんを知らないし、お母さんとお兄ちゃんの三人の暮らししか知らないから。」


 すみれは目を瞑って、首を左右に振る。


「やっぱり、分からない。

 お父さんがいる友だちが羨ましいと思った事はあるけど、じゃあ、お父さんだよっていきなり男の人がうちに来ても、なんだか、イヤ。」


 すみれの素直な反応に、早苗は味方を得たように思いながら、意地の悪いことを重ねて聞いた。


「でも、佳乃さんだって連れ合いが欲しいと思うのかもしれないわ。」


 早苗はどこまですみれが自分の味方であるのか、試す質問をしていることを自覚していた。


 小さな子どもだったすみれに、一体自分は何を押し付けようとしているのか。奥底にある執着心と益体(やくたい)もない焦りが早苗の中にあった。

 濁った早苗の心持ちに気が付く事なく、すみれは真っ直ぐな瞳で、早苗に答えた。


「それはお母さんにとって必要かもしれない。でも、あたしはそれを見たくない。」


 まだ恋を知らない少女の潔癖さは、早苗にとって救いに感じた。


「そう。それなら、もし、そんな話になった時は、わたしはすみれちゃんの味方になるわ。」


 早苗は切れ長の目を美しく細めた。







 ほどなくして、佳乃が店に戻ってくる。佳乃はすみれに声を掛ける。


「お手伝いご苦労様。後は大丈夫だから、夕飯まで遊んできな。」

「そんな小学生じゃないんだから。学校の課題をやってますからお静かに。」


 すみれは澄ました顔で答えて、早苗に頭を下げて店の奥へと消えていった。


「あんなこと言っても、三十分もすると出掛けるくせに。」


 佳乃は苦笑いを浮かべながら、鉄板に火を入れる。


「今日は何の喧嘩をしたんだい?」

「え、喧嘩?誰が?」

「早苗さんと稔さんだよ。」

「どうしてそう思うの?」


 目をぱちぱちと驚きを露わにしながら、早苗がカウンター越しに佳乃に尋ねた。


「だって、早苗さんがこんな中途半端な時間を選んで来る訳がないもの。稔さんに行ってこいって言われたんだろうって。」

「それは、そうだけど…」


「それに仲睦まじい二人が離れて、わざわざここまで来るんだもの。喧嘩だろうって大概思うよ。」


 佳乃は、にいっと片方だけ唇を引き上げて笑った。


 早苗はなんだか面白くない顔をして、横を向く。


「だって、前に肖像画の注文があった女のいる家にひとりで行くなんて。どれだけわたしが不安だったか分かってないんだもの。」

「それ、何もなかったんだろ?」


「無いわよ。無かったからほっとして、気が抜けて怒ってるのよ。それなのに、稔さんは何にも無かったからいいだろうみたいな。」


 佳乃はふふん、と鼻で笑うと、いつも通りに持ち帰り用の粉焼きを作り始めた。


「なんだかねぇ。男はすぐに物事を解決させようとするからね。女はただ怒ってる事を分かって貰いたいだけなんだけどね。上手くいかないもんだね。」

「佳乃さんの所へ行けば、わたしの機嫌が良くなると思ってるのね、稔さんは。」


 早苗の声が低くなる。


 佳乃は肩をすくめて、何も答えなかった。















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― 新着の感想 ―
[一言] >「なんだかねぇ。男はすぐに物事を解決させようとするからね。女はただ怒ってる事を分かって貰いたいだけなんだけどね。上手くいかないもんだね。」 確かに( ˘ω˘ ) 男性は買い物とかもすぐ終わ…
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