第八十七話 雨水による春泥 7
早苗はケープを店の奥の座敷へ畳んで置くと、割烹着を借りて鉄板のあるカウンターの内側に立った。
「何をすればいいの?」
「そこの皿を取って。後は洗い物をお願いしていいかい?」
「ええ、分かったわ。」
早苗は黙々と皿を並べて、溜まっている汚れ物を洗った。
向かいのカウンターでは、酒を飲みながらつまみに粉焼きを食べる客が座っていた。佳乃がぽんぽんと、銚子と粉焼きの盛られた皿を渡す。
その様子が互いに慣れた風だったので、早苗は常連客なのだろうなと思った。
昼飯代わりに来ていた客も帰り、店の中には常連客と思われる男性と、途中から手伝いに入ったすみれだけになった。
「さあさあ、早苗さん、今度は食べる側にどうぞ。」
佳乃に勧められるまま、カウンターの外側の席へ移動すると、すみれが入れ替わりに中へ入り、お茶を用意した。
「どうぞ。」
「ありがとう。」
早苗は小さかったすみれを思い出し、あの頃はお茶も飲めていなかったことも併せて思い出していた。
中学生のすみれは美味しいお茶を淹れていた。
本当に十年経ったのだなと、早苗は感慨も深く、茶を啜った。
「いつも手伝いをしているの?」
「今日は偶々かなぁ。先月は寒いから家まで届けて欲しいっていうお客さんがいたから、あんまり店には居なかった。」
「それも手伝いよ。」
早苗は目を細めながら、すみれと話していた。
銚子も空になったのか、常連客の男性は佳乃に声を掛けると、カウンターに支払いを置き、外へ出て行った。
それを見送るように佳乃は常連客について、店の外へ。
引き戸が閉まる音がした。
早苗は気にも留めずにいたが、すみれは二人が出て行くとすぐに目配せをしてきた。
そして言った。
「ねえ、早苗さんはどう思う?」
「どうって?」
「お母さんの相手として、どう思う?」
早苗はすみれの言葉に驚き、声をあげた。
「え、そうなの?」
「見てて分かるじゃない。」
「常連さんなのだろうとは思ったけれど…」
早苗はカウンター越しに、すみれと密談するように声を潜めた。
「佳乃さんは、何て?」
「何も。だって、そんなこと言い出すようになったら、どうにも出来ないじゃない。」
すみれは幼さがある顔を盛大に顰めた。
「うちにお父さんとか居た時の記憶なんて無いから、家に大人の男の人が入ってきたら嫌だなとしか思えない。」
「まあ、そうよね。わたしより前の人の記憶だものね。」
「それになんとなく、お母さんが嫌。」
「それは、何が?」
「だってお母さんなのに、お母さんじゃないみたいな顔をするのよ。なんだか気持ち悪い。」
すみれは両腕を抱きしめるようにして、手のひらでさすっている。
本気で嫌がっているようだ。
だが、それもむべなるかな、早苗にも身に覚えのある反応だった。
特に思い入れもないような自分の父親に対しても、義母が来たばかりの頃は気持ち悪くて仕方なかった。
今になって思えば、あれは父親が男の顔をして義母と仲睦まじくしていたからだと分かる。
妻に捨てられた後も変わらずにいた父親。そして、捨て子のように置いていかれた早苗に謝るでもなく、慰めることも笑いかけることもなかったその父親が、義母の前ではにやにやと締まりのない顔をしていた。
新しく来た義母よりも、父親の変貌の方が早苗にとっては気味が悪かった覚えがある。
早苗には、すみれの言わんとする事が手に取るように、理解出来てしまっていた。




