第八十六話 雨水による春泥 6
早苗はいつも通りに朝起きては、いつも通りに家事を済ませている。
朝から来たモデルも先ほど帰った。
稔には新しいお茶を出し、モデルの娘の飲んだ茶碗は片付けた。
そして裁縫道具の確認を始める。
今度早苗は、お針子の内職を始めることになった。珠代に貰った藍染の反物を仕立てた時に、稔と早苗の着物を見た寿栄子から、知り合いの着物を頼まれたのだった。
四月初めの入学式に合わせて着物を新調する人がいるらしい。
洋装が主流の昨今だが、式典など節目の行事には着物を選ぶようだ。
早苗は裁縫道具の不足が無いか確認をして、鯨尺の物差しと、くけ台も一緒に久間木の家から借りた裁ち台の上へまとめて置いた。
その時、少し大きな音を立てた。
「早苗、具合でも悪いのかい。」
「急にどうしたの。どこも悪くないのに。」
とりつく島もなく答える早苗。
稔は筆の尻の方で頭を掻きながら、早苗の不機嫌さについて考えを巡らせていた。
伊東明日花の絵を仕上げてから、どうにも早苗の機嫌が悪い。
伊東明日花の家から帰ってきた日と翌日は明るくしていたと思うのだが。
稔には見当もつかなかった。
抱きしめて顔を近付けても、布団の中で身を寄せても、早苗の不機嫌さは直らなかった。
先週見送ったばかりの稲川夫妻の手紙はまだ来ない。こちらからは、昨日出来上がった写真を送ったばかりだ。
稔は絵筆を油壺の中に入れて、テレピン油をぐるぐるとかき混ぜた。
筆を壺の縁にあてて穂先を揃えると、パレットの上の絵具をちょいちょいと掠めた。
そしてまた早苗を見ると、言った。
「午後にでも佳乃さんの粉焼きを買って来てくれないかなぁ。」
早苗の機嫌を伺うようなものの言い方に、早苗は稔には見えない方の頬を膨らませた。
しばらく黙った後に、
「いいけど、お昼ご飯の後から出掛けるから、夕飯は遅くなるわよ。」
と、平坦な声で答えた。
稔は早苗が返事をしてくれたことに胸を撫で下ろしながら、
「うん。それじゃあ、夕飯になりそうなものも買って来てくれないか。」
気遣うような笑みを浮かべて言った。
早苗は昼食の後に出掛ける準備を整え、袖のないふんわりとしたケープを羽織った。
寿栄子には小さく、かつ子には大人っぽくて着せられないからと貰ったものだ。
早苗は玄関を出て、空模様を見てから歩き出した。
天気は良さそうだった。
早苗が外に出てしばらく経ってから思い出したが、今日は日曜日だった。勤め人のモデルが来ていたのをすっかり忘れていた。
早苗はどうにも今日の自分はおかしいと思い始めた。
だが、稔のそばでは不機嫌さを隠すつもりも無かったので、ぷんぷんと怒ったままの顔で駅へと向かった。
日曜とあって佳乃の粉焼き屋は混み合っていた。
小さな子どもを連れた父親や、新聞を広げた初老の男性。
そして、時々駆け込んでくる子どもたち。
狭い店内の入り口から顔を覗かせた早苗
を見つけた佳乃は、にっこりと笑うと早苗に声を掛けた。
「ああ、ちょうどいい所に。早苗さん、中に入って手伝ってちょうだいよ。」




