第八十五話 雨水による春泥 5
理の違う女たちと稔を挟んだ戦いは、いつも訳が分からなかった。
早苗は稔さえいればいい。
それなのに、稔を奪おうとする女たちは、あれもこれもとたくさんの男たちを欲しがった。
伊東明日花の継母もそうだ。
資産家の後妻に入って、夫も豪奢な暮らしも手に入れたのに、それでも飽き足らず、見目の良い絵描きを手元に置こうとする。
早苗が命を懸けて愛している稔を嗜好品のように好む女たち。
許せる訳が無かった。
稔には、説得で全て終わらせていると伝えた女たちとのやり取りは、思い出したくもない。
奸計を巡らす早苗を稔には決して見せる事は出来ない。そんな姿を見ては欲しく無かったから。
稔がいる間は女たちと戦いに明け暮れ、召集されている間は、戦時の暮らしに明け暮れ、早苗の乙女盛りの時期は、軍靴で泥に塗れて終わった。
ようやく戦争が終わって、復員した稔との生活が身に染み込み始めたのだ。
絶対に奪われるわけにはいかない。
早苗はひとり電灯の下、膝の上の両手を握りしめた。
全ての時が止まったように思い始めた夜の時間に、稔は酒の匂いをさせて帰ってきた。
カンバスと道具箱を早苗に渡しながら、マフラーと羽織をはたく少し酔い顔の稔が言った。
「ああ、雪がちらついてきたよ。
遅くなってすまない。帰る途中で、敬蔵さんに会ってしまって。」
早苗は強ばったままの顔で、首を傾げた。
「敬蔵さん?久間木さんから聞いたお勤め先とはだいぶ場所が違うようだけど。」
「うん、偶々出先で会ったみたいだ。滅多にないことだから、そのまま話していたら、酒を勧められて。」
「…伊東明日花さんのお宅は、いつ出たの?」
「一時間も居なかったと思うけど。色をいくつか作って、うぅん、あ、お茶をご馳走になったかな。」
「それだけ?」
「他に何があるんだい。」
「前に肖像画を描いた方がいるのでしょう?」
「ああ、伊東さんの絵は終わっているし、今は仕事が立て込んでいるから、肖像画は描けないと言ってきたよ。」
「……そう。」
早苗はカンバスと道具箱を奥の部屋へ運ぶと、居間の電灯を遮っている襖の影で、ほうっと息を吐いた。
そして、頬を両手で軽く叩くと、顔をあげて明るく聞こえるように声を出した。
「ああ、お腹空いちゃったわ。稔さんも少しは食べられるでしょう?」
くるりと、襖の影から稔の前へと体を寄せると、マフラーをほどきながら、
「ふふふっ、煙草の匂いがうつっているわね。」
と言って笑った。
その手は微かに震えていた。
翌日から稔は、伊東明日花の絵の仕上げに取り掛かり、すぐに完成させた。
その日も早苗宛に洋封筒が届き、早苗は慣れた手つきで中を改めると、中に戻すことなくそのまま竈へ投げ込んだ。




