第八十四話 雨水による春泥 4
早苗が稔を引き留める事に失敗した翌日。
稔は、確認しやすいように色を調合して試しの色をいくつも塗った小さなカンバスと、油彩画の道具箱を持って、出掛けて行った。
伊東明日花は骨折のため、自宅療養中でいつでも家にいるとのことだったので、午後二時の約束にしたらしい。
確かにその時間ならば、お手伝いの人も居るだろう。しかし、そんなもの用事を言い付ければ簡単に排除出来る。
稔は伊東明日花にさえ会わせて貰えずに、継母のあの女の相手だけをして、再度の訪問を求められるのでは無いだろうか。
早苗は己ならば取るであろう行動を想像すると、落ち着いていられなかった。
早苗は買い物を済ませてしまおうと、霙混じりの天気にも関わらず出掛けることにした。
稔も居ないのだからと、いつもより遠くの店にまで足を伸ばした。
舗装された道にじわじわと溶けた水溜りが下駄を濡らす。
下駄の歯がだいぶ減っていると思っていた事を思い出した早苗は、食料品の入った買い物籠をぶら下げたまま、下駄を一足買い求めた。
籠には入らないので、新聞紙に包んでもらい、胸元に抱えて帰る。
家に着く頃には曇り空になっていた。
まだ、稔は帰って来ていない。
早苗は買い出したものを仕舞い、上り框に腰掛けると、下駄の入った新聞紙を広げた。
早苗の所で取っている新聞と違う紙面。
外出疲れでぼうっとしたまま、とりとめもなく記事を読む。
戦勝国の首相が、水爆製造の開始した、との記事。
早苗はしばらくそれを眺めていたが、不意にぐしゃりと握り締めると、そのまま新聞紙を小さな玉になるまで丸めた。
そして竈の方へ放り投げると、下駄を土間に下ろしてから、炬燵のある居間へと入った。
日が暮れても稔は帰って来なかった。
お櫃に入ったご飯が冷める前には来るだろうと思いながら、早苗は焦る気持ちを抑えきれずにいた。
外に出ては、真っ暗な塀の向こうに何度も顔を出しては戻す。
久間木の家の方から来るかもしれないと、畑の方へ行っては戻って来る。
風呂を沸かしているのか、木の燃える匂いが強く流れてくる。
雲に覆われた空は、星も雪もなく、じっとりと早苗を覗き込んでいた。
早苗は稔の身に何か起きているのではないかと、想像だけでなく、確信に似た思いを抱きながら、立ったり座ったりを繰り返していた。
あの女は、伊東明日花が稔のモデルになった事を最初から知っていたに違いない。
血の繋がらない娘とはいえ、同じ家に寝起きする継母だ。モデルの許可を出す時に知ったに違いない。
そして、早苗と明日花は似ている。今になって、早苗へ風当たりが強かった事が、明日花と顔が似ている事に起因しているとはっきり分かった。
早苗にとっての義母は、どこまでも別の女として張り合って来る存在だった。佳乃が持つ母親らしさは、義母にも、明日花の継母にも無かった。
義母のように、息子がいれば子ではなく、自分の男として囲い込むような女なのだろう。
彼女らの世界は二極化していて、自分にとっての人とは、男と女しかないように思っているのではないだろうか。
早苗には理解出来なかったが、そういう女たちに災厄を振りかけられ続ける内に、受け入れるしかなくなった。
稔の周りに寄って来る女たちは、そういう女ばかりだった。




