第八十三話 雨水による春泥 3
久間木の家から戻った稔は、早苗に伊東明日花の家に行く日時を伝えた。
早苗はさっと顔を青褪めさせると、引き留め始めた。
「家に行くまでしなくても、ここで描いたもので、出来るわ。」
「それは形の方は大丈夫だが、色を重ねていてどうも今ひとつ違うんだ。肌と髪の色の具合が上手くいかないと、仕上がらない。」
「でも、若い娘さんの家に行くなんて、伊東さんの方にもよろしくないわよ。」
「大丈夫だよ。明日花さんのお母さんがいいと言っていたようだし。お手伝いさんも居る家らしいから。」
「…伊東さんって、去年の春先に来てた方と同じ住所だったわ。」
「ああ、やっぱり知っていた人が来てたか。
伊東さん…伊東さん。肖像画を一度描いただけの人だな。
確かそれなりに資産家の奥さんだったような。描き上げてからも絵の具や筆の差し入れを持って来てくれていたな。」
稔は顎に手をあてて、思い出せるだけ思い出そうとしていた。
「…確か、後妻に入って何年か経って、それなりに落ち着いたから記念に描いて貰いたいと言っていたな。
ああ、明日花さんは継子なのか。道理で似ていないわけだ。」
稔は、ひとりで話してひとりで納得していた。
その目の前で、早苗は不安を抱えて立っていた。
あの執着心の強い女が、家に稔を呼び寄せて何もしない筈がない。
稔は懐に余裕があるからこその絵の具や筆の差し入れだと思っているが、なんのことはない。ただの稔会いたさの口実だ。
その証拠に菓子折りなど早苗に関与しそうな品物は一切持って来なかった。
稔の留守中に絵の具を差し入れに来た時は、早苗が預かろうとすると、門外漢のお前に何が分かるかと言わんばかりの蔑如の態度だった。
早苗はぎゅっと稔の着物の袂を握った。
どうしたのかと稔が視線を寄越すと、
「行かないで欲しいの。」
蚊の鳴くような声で早苗が言った。
稔はたかたがこれだけの事で、嫉妬をしておねだりをしてくる早苗を愛らしいと思った。
その愛らしさで膨らんだ気持ちのまま、稔は愛し愛される者同士なら、全てを赦されると思う傲慢さを無自覚の内に働かせていた。
「心配性だな、早苗は。」
胸元より下にある早苗の頭を撫でながら、稔は言った。
「ほんの少しだけ色を確認して、決めるだけだ。行く前にちゃんと候補の色を並べて準備して行くから。
出来るだけ手早く済ませて帰るから大丈夫だよ。」
髪を指先で梳いて、そのまま早苗の耳を撫でながら、稔はご機嫌を取ろうとした。
早苗の為に、今は画集を精美に仕上げる。稔はその事だけに注意を払っていた。
絵の仕上がりが、そのまま早苗の心身を美しくさせると信じながら。




