第八十二話 雨水による春泥 2
稔は電話を済ませ、お礼を言って帰ろうとしたが、久間木に誘われて客間へと入った。
畳の香りも真新しい客間には、雛人形が飾ってある。
「知り合いが譲ってくれましてね。五人囃子までついているものですから、かつ子が人を呼んでは自慢してまして。
明日はお友だちとひな祭りをするそうですよ。
それで、私も真似をして、藤村さんに自慢してみようかと。」
はっはっはと久間木が笑うと、稔は雛飾りを見ながら、ぽつりと溢した。
「子どもがいないから、考えた事も無かったです。雛人形、いいものですね。」
「おや、おふるで良かったら、うちの物を貸しますよ。」
「あ、いえ、置く場所もないので。」
そう言ってから稔は、また雛人形に目を戻すと言った。
「早苗に何もしてやっていないですね。俺は。
もう少し、広い家に家移りすれば、雛人形も飾れるんでしょうかね。」
久間木は眉を上げると、稔に聞いた。
「どうしたんですか。藤村さんは今の暮らしで足りていると思っていましたが。」
「ああ、いえ。不足は無いです。
ただ、師走の前に反物を買ってやれていたら、早苗も正月に新しい着物を着られたのにと思ったのがありまして。
もう少し、早苗にいい暮らしをさせてやれないかと、今頃になって気付きまして。」
恥ずかしさを誤魔化すように、稔は首筋に手をあて、幾度か動かした。
久間木は目を瞬かせてしばらく黙っていたが、記憶が思い当たったのか軽く頭を振った。
「ああ、珠代さんからの反物でしたね。あれは。着物の多寡で早苗さんの幸せが決まるものでもないですから。
今のままでも早苗さんは充分に見えますよ。藤村さんはよくやってます。」
久間木は断定するように言ったが、稔は何かを探すように話し始めた。
「早苗と所帯を持った頃、すぐに赤紙が来てしまって。
モデルの女学生たちの年の頃の早苗が、一人で俺の留守をずっと守っていたのかと思うと。
随分心細かっただろうなと、今頃になって思うんですよ。まだ親の庇護で暮らしているような娘たちを描いていると、早苗に申し訳ないことをしたと考えてしまうんです。」
「だが、藤村さんの時代はそういうものだったのだから、仕方がないものですよ。
昨今のお嬢さん方が、あの頃と同じ境遇だったら、それはそれとして受け止めて生きていくと思いますよ。」
「そうなんでしょうが…。今は違いますから。
やっぱり、出来るだけのことはしてやりたいです。」
きっぱりと物思いを断ち切るように稔は言うと、久間木を見てにこりと笑った。
「それに急に何か出来る訳でもないので、ひとまず今の画集のために絵を描き上げます。
画集が売れて、展示会で絵も売れたら、また考えます。」
久間木は曖昧に笑って、それを返事として終わった。




