第七十九話 草木萌え動く頃 8
早苗と珠代の内緒話がすっかり終わった頃に、今日の主役である稲川夫妻が到着した。
早苗は先に包装した料理本と、握り飯と卵焼きの入った風呂敷包みを豊子に渡した。
「いいですか、無茶しないで、素直に本の通りに作って下さい。」
「大丈夫ですよ!今まで早苗さんと珠代さんの作ったご飯を食べてきたんですよ!
何が美味しいかちゃんと分かってます!」
「その自信が無駄な方向に発揮されるから、こうやって本まで用意したんです!」
「やっぱり、早苗さん一緒に…」
「行きませんから!」
早苗はぴしゃりと断ってから、豊子に本を押し付けた。
「あとは、嫁ぎ先の味を覚えて下さい!」
豊子はホステス仲間から餞別に貰った濃紺の外套姿で、口を尖らせて答えた。
「はぁい。分かりましたよ。早苗さんの料理は秘伝ですからね。」
稲川の息子の清正を駅の方に置いてきたままだと聞いた早苗は、ゆっくり出来ないのだとすぐに判断した。
稲川は、息子も息子で、親の居ない方が友達と最後の挨拶が出来ていいのだと言っていたが、あまり遅くさせられないと早苗は首を振った。
稔は早苗の聞き分けの良さを愛しいと思いながら、もう少し我儘になってもいいのでは、と隣で見ていた。
稔からすれば、早苗は別れが寂しくて、泣いてしまいそうだと分かっていたからだ。
「早苗、お茶がだめでも、写真はいいだろう?」
稔は泣き出しそうなくせに、いつも通りに振る舞う早苗のために、とっておきを用意していた。
久間木から借りた二眼レフカメラだ。
早苗は稔の手に収まる黒い箱のようなカメラを見て言った。
「稔さん、カメラ使えるの?」
「大丈夫だよ。フィルムも入れて貰ったし、絞りもシャッタースピードも調節して貰ってあるから、シャッターを切るだけだよ。」
稔は得意げな顔で構えようとしたが、すぐに固まった。
「稔さん?」
「…シャッターは手前のここだけど、上蓋が…」
稔はしばらく固まっていたが、ふっと力を抜くと、
「覗き窓の開け方が分からないから、久間木さんに聞いてくるよ。珠代さんも入って貰いたいから、戻って来るまでお茶を出して待っていてくれ。」
早苗と目を合わせて、頼むよと言うように、稔が微笑んだ。
早苗は稔の企みに気がついて、頬をじんわりと紅くした。
「…そ、それなら、仕方ないもの、ね。お茶を飲んで貰うわ…」
別れを惜しんでいる事を見抜かれた羞恥を早苗は誤魔化すべく、他の三人へ顔を向けると、
「すみませんが、お茶を飲んでお待ち下さい。」
と言って、玄関の方へ向かった。
稲川は稔をちらりと見てから、
「オレも一緒に行って聞いてくるかな。あと、三脚代りになりそうなもの借りてくるから。」
そう言って珠代と豊子に中へ入るように手を差し向けた。




