第七十七話 草木萌え動く頃 6
早苗は菓子を食べることを止めて、珠代に聞いた。
「珠代さんのお仕事って、何だったんですか?」
「ふふふ。早苗さん、耳を貸してくださる?」
珠代はそう言って、早苗の片方の耳を両手で覆うと、囁くように言った。
「間諜ですわ。」
早苗は目を大きく開いた。
珠代はその体勢のまま、話を続けた。
「占領下で女一人生きていこうとした時に、声が掛かりましたの。私の見目の良さと察しの良さが生きる糧になりましたわ。
でも、何をしていたのかは、ごめんなさい。言えないの。
それでもこの国の為に必要だと思って、生きてきましたわ。」
そこまで話すと、そっと体を離した。
驚きに満ちた顔の早苗を見て、くふふと珠代が笑う。
「でも、全て過去の事になりましたの。
私は失敗をして、命を貰う代わりにお払い箱となりましたわ。
だから、これからは、かなえと生きていきます。」
早苗は更に驚いて、口を開いた。
「かなえ、さんって、空襲で亡くなったって。」
「ええ、亡くなりました。今も戸籍は死亡のままですわ。でも、別の戸籍で生きていますの。」
早苗は珠代が狂ったのかと、訝しげに見た。
珠代は澄ました顔で湯呑みを両手で持つと、一口啜ってから話し出した。
空襲の後、川から子どもが引き上げられた。
その子どもは水を飲みすぎた上に、寒さで体を震わせていた。
途中途中、川の石に体を打ち当てていたのが、全身打撲の痕。その上、溺れる人たちに掴まれた服は破けていた。
その子どもの肩から下げられた水筒。
そこに『たまよ』の文字。
その水筒の名前を手がかりに、信州から孫を探しに来た夫婦が自分の孫だと名乗りをあげて、連れ帰った。
高熱にうなされた子どもを看病し続け、ようやく声が出せるようになった時には、『たまよ』として子どもを育てる事を決めている夫婦の姿があった。
「まさか、父にあげた水筒がこんな働きをするとは思いませんでしたわ。
本当なら、私の家に届けるべきだったのでしょうが、娘を亡くされたお母さんがすっかりあちら側の人になってしまわれて。
『たまよ』と名前を呼んで、かなえを手放さなかったそうなの。
かなえもまだ数えで七歳で、本所区のおじいちゃんの家に居たとは言えても、自分の住所を周りの大人たちにはっきりと教えることも出来なくて。
その上、信州からお孫さんを探しに来られたご夫婦が、あの空襲の焼け跡を見てしまった後でしょう。はぐれた母親を探すよりも、子どもの命を守ることに決められたのですわ。」
そこで、亡くなった『たまよ』の死亡届は出されずに、かなえが代わりに入った。
「露見したら大変な事ですけど、私の娘として戸籍に残るよりも安全ですわ。
私は親も夫も子どもも居ない天涯孤独の身。それでいいのです。」
珠代はふふふとまた笑う。
「そのおかげで早苗さんや豊子さんとの出会いを大事に思えましたわ。」
「…これから、どうするの?」
「私は仕事に失敗して、命とお金だけを持って信州に引っ込みますわ。そこで、同じ『たまよ』の名前を持った娘さんのお隣に住みますの。」
早苗は大きく目を開くと、珠代の肩を掴んだ。
「それじゃあ…」
「ええ、これからは娘の側で生きていきますわ。」
艶やかな牡丹が咲き誇るように、珠代が笑った。




