第七十六話 草木萌え動く頃 5
曇り空の土曜日。
早苗はそわそわと動いている。
可愛らしい紙に包まれた一冊の本と、十個以上の握り飯。
そして卵焼き。
茶を出せるように、火鉢には薬缶。
もちろん、湯は沸いている。
稔は油彩画に仕上げの筆を滑らせながら、早苗の様子を見て苦笑した。
「そんなに落ち着かなくしていなくても、稲川たちは来るよ。」
すると、早苗はぴたっと動きを止めて、稔を振り返ると言った。
「少し片付けていただけよ。」
「そうかな。豊子さんが来るのが待ち遠しく見えたけど。」
「そんなことないもの。」
そして今度は外へ出て行った。
稔はくすくすと笑いながら、筆を持った。
早苗は外に出て、桜の木を眺め、紫陽花の枯れ枝を折ったりしていた。
それでもいい加減、寒さを感じたので、中に戻ろうとした時。
車の停まる音。
早苗は飛び石の方へ向かう。
少し足が速い。
塀の向こうから現れたのは。
柔らかなベージュの丈の長い外套を着た珠代の姿。
「珠代さん。」
「ごきげんいかが?早苗さん。」
ふふふっと笑うと珠代は早苗に駆け寄り、抱き締めた。
早苗はぎゅっと歯を食いしばった。
するりと珠代は身を離すと、手に持った鞄から、包みを出した。
「豊子さんが引っ越すと聞いて。今度こそ最後の挨拶に伺いましたわ。」
包みは、見た事のある焼き菓子。
早苗は喜びの後の別れの覚悟を呑み込む為、目をすがめて息を溜めた。
嬉しいけれど、悲しい。
嫌だと言ってしまいたい衝動に駆られた。
それでも、早苗は黙ったままだった。
早苗は気が付いていないが、その姿は駄々をこねる子どものようで、珠代は早苗の心中を手に取るように分かった。
だからこそ、話をすることに決めた。
「早苗さん、私も引っ越すことになりましたの。お別れですわ。」
早苗は珠代の持ってきた菓子を縁側に腰掛けたまま、箱を抱えてぽりぽりと食べている。
それは留守番を言い渡された子どもの拗ねた様に似ており、珠代は頬を緩ませた。
「まだありますからね。後で食べて下さいね。」
珠代は稔の淹れた茶を啜りながら、早苗を眺めた。
すっかりご機嫌斜めになった早苗は、縁側から動こうとしない。
話し声に気が付いた稔が、障子を開けて珠代を見つけた。寒いから中にと言うが、早苗が駄々っ子の如く動かない。
仕方なく、縁側に二人分の茶を出すと、気を利かせて中へ引っ込んだ。
「早苗さん。そんなに私とお別れするのが辛いのかしら?」
珠代が揶揄うつもりで言うと、早苗はこくん、と顔を下に振った。
珠代は予想外の早苗の素直さに、笑みが崩れた。
「ふふふ、それは申し訳ありませんわ。でも、これでもここに来られただけ、良かったのですから。」
珠代は早苗の方へ顔を向けると、訥々と話し始めた。
「私は仕事で大きな失敗をして、古くからいるお偉い方の怒りをかってしまったので、逃げなければいけませんの。」
早苗が少しだけ、珠代を心配そうに見る。
「ふふっ。そう言う理由でようやく自由の身になりましたの。だから、心配しないで。
ただ、こちらの繋がりは全て無くさないといけなくなりましたの。
だから、ごめんなさいね。」




