第七十五話 草木萌え動く頃 4
早苗は炬燵で縫い物をするつもりで、針を持っていた。
しかし、その手は動いていない。
ぼんやりと、手元を見たまま。
稔は画材を買いに出掛けた。
家にはひとり。
障子越しの日の光が、一瞬陰る。
雲が過ったのだろう。
しばらくすると、また元の明るさに。
早苗は溜め息をして、針を戻した。
考えても仕方のない事を考えている。
昨日見たものは、ただの事故だ。
稔はあの後に態度を変えることは無かった。
帰って来た早苗の頬を挟み込み、「顔が冷たいな」と言って微笑んでいた。
早苗と同じ顔の若い娘を長時間見つめた後で。
早苗はまた溜め息を吐いた。
そもそも、稔は早苗と明日花の顔が似ていると気が付いていないのではと、早苗は思った。
早苗の若い頃と似ていると言っても、その頃の稔は召集されて、早苗の横には居なかった。
早苗はその頃、毎日鏡で顔を眺めていたが、それも稔が帰って来た時にがっかりされないようにという気持ちからだった。
怪我をして帰ってくるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて、稔を待っていた。
本来なら、それこそ誹られる内容だと当時から分かっていた。
それでも、僅かでも国の為に出たのなら、それで終わりにして返して欲しかった。
稔は早苗のものだ。
早苗は強く息を吐くと、炬燵から立ち上がって外に出た。
箒を持ち出して、今朝掃き出したばかりの庭を眺めた。
端の方を掃除しようと、歩き出した時、声が掛かる。
郵便屋だ。
早苗は「ご苦労様です」と答えて、郵便物を受け取った。
珍しい厚手の洋封筒。
宛名が早苗になっている。
珠代かもしれないと、早苗は箒を庭に置き捨てて、鋏を取りに居間へ戻った。
なんとなく、藍染の反物に添えられたカードの文字より汚い文字だと思ったが、逸る気のまま開封する。
中には花模様の付いた便箋と折り畳まれた絵が一枚。
『藤村先生は私を描いてくれました。』
珠代の文字より品の無い文字。
虚仮威しの一文。
絵は鉛筆で描かれた上半身のみの裸婦像。
顔は見知らぬ女。
パーマの髪が肩にかかっていた。
早苗はぐぐっと眉間に皺を寄せると、稔の仕事部屋に向かった。
机の上にあるのは、伊東明日花の素描。
線が違う。
稔の陰の付け方が、この裸婦像には無い。
まったくの偽物だ。
早苗はこの程度で稔の絵を騙ることに腹を立てた。
模倣する気も無い絵で、早苗を揺さぶろうとする事に、だんだんと腹が立ってきた。
早苗は便箋と絵をまとめて握り潰すと、封筒も合わせて竈に投げ込んだ。
ついでに薪も投げ込んで、鍋で湯を沸かすとそのまま夕飯の支度を始めた。
紙の灰すら残らなかった。
早苗は翌朝、霜の降りた箒を手に、庭を掃き清めた。
稔が珍しく手が赤いよ、と言って両手で包んで笑った。




