第七十四話 草木萌え動く頃 3
早苗は、土産の粉焼きが包まれた新聞紙を、胸に抱いて歩いた。
寒い冬の空気の中、胸元だけがほかほかと温かい。
すみれを抱いていた頃を思い出した。
あの頃の記憶が無いすみれは、空襲も焼け跡も知らない。
それでいいと思う。
達郎は朧げに覚えているようだが、焼け跡もバラック小屋の生活も覚えていて欲しいとは、早苗には思えなかった。
記憶の取捨選択は出来ない。
何を覚えて、何を忘れているのか。
それを自分で決める事が出来れば、どれほど楽か。
早苗は冬の薄水色の空を見上げた。
夏の青さは何処にも無かった。
電車に揺られ、駅からてくてくと歩いて帰る。
寒さに頬を染めた早苗は玄関に入るなり、異状を知る。
学生の靴が一組。
早苗は急に早鐘を打つ心臓を宥めながら、ゆっくりと上り框に足を掛けて、障子に手を添えた。
胸元の粉焼きも、もう冷めている。
すうっと息を吸って、吐く。
障子の戸を力を込めて、開く。
居間の向こうにある奥の部屋。
襖は開けてある。
その開いた襖から見えたのは、伊東明日花の肩に手を置く稔。
早苗は悲鳴を飲み込んだ。
その早苗に気付いた様子もない二人は、
「大丈夫かい。」
「…すみません。ちょっと立ちくらみがして。」
「もう一度椅子に腰掛けた方が。」
自然に離れた。
そのまま帰ろうと、歩き出した明日花が早苗に気が付いた。
「あ、お邪魔してます。日にちを間違えてしまって。明日の予定を今日に変えて貰いました。」
なんの含みも無く、明日花は早苗に頭を下げてそう言った。
早苗は今、自分の見たものが、ただの親切な行為であると理解しながらも、声が出せなかった。
稔は、何とも思わなかったのだろうか。
早苗に似た、早苗よりも若く美しい娘に対して。
黙ったままでいる早苗を庇うように、稔が言った。
「突然、人が居て驚いたようだよ。普段は妻と二人暮らしだから。」
「あの、すみませんでした。」
早苗はようやく声を取り戻すと言った。
「あ、いえ、こちらこそすみません。お茶も出さずに。
てっきり稔さんだけしか居ないと思って。」
早苗はにっこりと、笑った。
「粉焼きをいただいて来ましたので、伊東さんもいかがですか?」
「あ、いいですか?…あ、でも、門限があるので、帰らないと。」
ぱっと笑顔になった後に、しょんぼりと表情を変える明日花を見て、早苗はまた新しい胸の場所が痛むように思えた。
「それなら、持ち帰りますか?紙で包んでありますから。」
それを聞いた伊東明日花が、華やいだ声でお礼を言った。
「ありがとうございます!家では滅多に食べられなくて。嬉しいです。」
にこにこと笑う姿を見て、早苗は崩れまいと足の指先に力を入れた。




