第七十一話 若紫の訪れ 6
「え、それじゃあ、本当に今日入籍したばかりなのか。」
「ああ。豊子と清正が戸籍でも親子になるかは、もう少し時間を置いて考える。清正もそれくらいの分別も持つようになっているから。まあ、焦らなくてもいいかと思ってな。」
驚きながらも、稔は稲川に酌をする。
稲川はそれなりに呑めるが、舐めるように呑み、だらだらと話す事の方を好む。
しばらくの別れと、稔との会話に興じている。
一方、同じ炬燵に入りながら、女同士の話を続ける早苗と豊子。
「じゃあ、正月にご実家へ挨拶に行って、無事に認められたのですか。」
「そんな大層なものじゃ無いですよ。
早苗さん、凄いんですよ。亡くなったお兄さん、お子さんが五人もいて。
しかも、全員清正くんより年下なんです。騒がしいのに巻き込まれてたら、何だか話がまとまってたんです。」
呑気に豊子が大根を食べながら答えた。
「豊子さんのご実家は、どうしたの。」
「ああ、兄たちなら元気にやってますよ。アタシ、甥っ子姪っ子もたまにしか会ってなかったから。子どもの元気さをみくびってました。」
次に鶏肉に箸をのばしては、もぐもぐと食べる。
「早苗さん、料理の味付けってどうしてるんですか。」
重大な秘密を聞き出すかのように、口元に手をあてて豊子が言った。
早苗は呆れたように、切れ長の目を細めると、
「勘です。真似しないで下さいね。」
と、答えた。
新妻の豊子に料理の味付けを問い詰められる早苗の横で、稲川は稔にこれからの予定を話していた。
「清正の学校があるから、本当は三月まで居たいんだが、田植えの準備を考えると間に合わないんだ。
二月いっぱいで、引っ越すことにした。」
「それは、また急だな。あと一週間もないな。」
「まあ、正月に挨拶をしに帰ってから、少しずつ準備は進めていたからな。豊子に断られていたら、落ち込んで何にも手につかなかったかもしれないが。」
くくくっと、笑うと稲川は盃を干した。
「ここに泊まりに来た事で、豊子も色々決めてくれたみたいだ。
ありがとうな。」
「それは、俺の手柄じゃないな。」
そう言って、稔は早苗と豊子を見ると、訝しげに声を掛けた。
「なんで豊子さんは、早苗に抱きついているんだい。」
「早苗さんの料理がアタシは好きなんです!嫁入りに連れて行きます!」
「何を無茶な事を。わたしはモノじゃありません。」
早苗は豊子の額をぺしり、と叩いた。
それから、腹が満たされるまで食べると、稲川夫妻は帰っていった。
引っ越しの前の日に、最後の挨拶に来ると言った時、早苗は泣き出しそうな顔になったのを稔は見ていた。
稔は明日にでも、早苗に佳乃の所へ遊びに行かせようと思った。
早苗にとって、姉のような佳乃なら、きっと早苗の寂しさに寄り添ってくれるだろうとの期待からだった。
早苗は豊子たちを寒空の中、飛び石の先まで送るため、下駄を履いて外へ出て行った。
手には紙に包んだ干し柿。
稔はその後ろにくっついて外へ出ると、漏れ出た家の灯りの上に星が輝いて見えるのに気が付いた。
星で方向を見てしまうのは、いつの頃からだろうか。
ふと仲間と夜空の下、歩き続けた日々を思い出した。
痛くもない今の足に、幻のように当時の痛みが入り込んだ。
今夜も冷え込みそうだと呟いてから、稔は足を動かして、早苗の方へ進んだ。
豊子たちが来た翌々日。
早苗は豊子の結婚祝いに、初歩的な料理本を買いに出掛けた。
その後に佳乃の店に寄り、昼食代わりに粉焼きをご馳走になった。
食べながらも、豊子の料理の腕への不安や、連絡も何も一切来なくなった珠代についての愚痴をぽつぽつと佳乃に話した。
佳乃は笑いを噛み殺しながら、
「そうだね。早苗さんの言う通りだね。」
と、同じ相槌を繰り返していた。
店の入り口に掛けられた一輪挿しの白梅が仄かに春を香らせている。




