第七十話 若紫の訪れ 5
早苗はぷりぷりと怒ったまま、豊子に割烹着を渡した。
「そんなにいい服を着て来ないで。うちは料亭じゃないんですからね!」
「そんなことないですよ。早苗さんのおうちは、その辺の店より掃除が行き届いてますよ。
アタシには、稲川さんと清正くんを部屋に呼ぶ事なんて、怖くて出来ないですから。」
早苗は、はたと気付いて豊子を振り返った。
「…清正くんて、稲川さんの息子さんよね。」
「はい。そうですよ。中学二年生の。」
「一緒に住んでるの?」
「え、住んでないですよ。もうすぐ稲川さんのご実家の方に住むんですから。二回も引っ越しなんて、面倒ですよ。」
「そう。」
早苗はほっとしたように、米を研ぎ出した。二回、三回と米の中で手を動かす。
豊子はその手を見ながら、何気なく言った。
「でも、ご飯は作ってますよ。毎日夕飯は一緒です。」
早苗はびくっと肩を震わせると、勢いよく豊子を振り返った。
「豊子さんの料理を食べさせたの?」
「ちょっと、早苗さん、ひどいですよ。」
豊子が口を尖らせた。
「だって、あなた、味付けがひど」
酷すぎて大変な目にあったと、早苗が言うよりも早く、豊子が早苗の口を手で塞いだ。
「しーっ!稲川さんに聞こえちゃうじゃないですか。
大丈夫ですよ。今のところ、紙に書いたものを見てから、味付けしてるので、外してないですよ。」
早苗は不満を訴えるように、下がり眉をしかめて、豊子を見上げた。
豊子はふんわりと笑うと、
「だって、本当のお母さんのご飯より、美味しいものは作れませんから。それならせめて、まあまあ美味しいご飯は作れる人なんだなって、思われたいじゃないですか。」
と、言った。
その笑う顔がかつてない柔和な笑みになっている事に、豊子は気が付いていなかった。
反対に、それを目の当たりにした早苗は、本当に稲川豊子になったことを実感し、更に眉間に皺を強く刻んで、豊子を睨みつけた。
稲川は、終始ご機嫌だった。
「ちゃんと稲川豊子にしたから、一緒に来ても大丈夫ですもんね。」
「はいはい、そうですね。」
早苗はおざなりな相槌を打ちながら、稲川の前に角盆ごと料理を置いた。
狭い炬燵が四方から囲まれて、窮屈なことこの上ない。
早苗は稔の盃に猪口から酒を注ぐと、豊子には黙って湯呑みを出した。
「早苗さん、アタシも呑めますよ。」
「ダメです。」
主に財布の面で。
大酒呑みの稔と豊子が合わせて呑めばどうなるのか分からない。
稔にも先に口を酸っぱくして言っておいた。
「今日は、絶対に呑みすぎないで下さい。お銚子が出なくなったら、お終いですからね。」
出版社に出す油絵を描き続けているが、事前広報として雑誌に掲載されたのは、まだ一枚だけだ。
連載中の挿し絵の仕事以外に、今の藤村家への収入は無い。
稔がこのままの早さで、絵を描き続けていれば、あとひと月ほどで予定の枚数になるだろう。
だが、それはまだ未定の収入。
今、結婚式代わりにここで呑まれてはたまったものではない。
早苗は急須から茶を注ぐと、豊子に言った。
「呑むなら食べない方がいいと言ってましたよね。今日は食べて下さい。」
途端に豊子は満面の笑みになり、
「はあい。いただきます。」
と、早苗に笑いかけると、箸を取った。




