第六十九話 若紫の訪れ 4
早苗は夕飯の大根と鶏肉の入った煮染めをくつくつと煮ながら、止まることのない思考と感情の波を抑え込もうとしていた。
下茹でして、面取りもした大根は、醤油の色も染み込んで、ほんのりとした甘さを含んでいる。
菜箸でゆっくりと触り、大根の固さを確かめてから、また蓋をする。
稔は奥の部屋で、伊東明日花の素描を並べて構図を練り続けている。
画集の出版を早める為もあるが、今回の稔の根の詰め方は、いつも以上だった。
雑誌連載の挿し絵以外の仕事を新たに引き受けずに、娘たちの絵を描き続けている。
六十センチと五十センチの四角い絵を入れ替えては、ずっと描いている。
絵具が乾くのを待つ間に、別の絵に筆を走らせる。早苗から見ると、同時に作業を進めているように見える。
その結果、常時稔は四人以上の娘たちの絵に囲まれて、日々を過ごしている。
混乱しないのかと聞いても、
「それぞれ、別の人にあてて描いているから。」
と答えて後は黙る。
何かが稔の中にある。それが何なのか、早苗には分からない。
その早苗の不安感に、落とし込まれた滲む黒墨の不快さ。
あの娘の髪のようだ。
早苗は、また自分の夜会巻の髪を撫でてしまう。
伊東明日花。
あの娘は、稔と出会った頃の早苗によく似ている。
早苗の亜種だ。
それも、早苗よりも数段上の。
肌のきめ細かさの違い。
明らかに早苗より大きい瞳。
少しだけ早苗よりも小さな顔。
そして、奉公人として働く日々を過ごしていた早苗と違い、栄養も睡眠も充分な生活を送っていると分かる艶々とした頬とふっくらとした胸元。
真冬の季節だというのに、微塵も荒れていない白魚のようにほっそりとした手指。
すべて、早苗が持ち得なかったもの。
そして、それはこれからも早苗が手に入れることのない美しさだった。
早苗が火鉢に炭を足して、ぼんやりしていると、玄関の戸が音を立てた。
日暮れ近いのに誰だろうと、障子を開けて上がり框へ行くと、
「こんばんは!早苗さん!いい匂いですね!」
玄関の戸を開けて、コート姿の豊子が立っていた。その後ろには、稲川の姿。
稲川は帽子を上げると、
「妻の豊子と一緒に、夕飯をご馳走してくれませんか?」
と言って、にやっと笑った。
早苗は、豊子と稲川の急な訪いに腹を立てたように、
「勝手に決めないで下さい!急に来られても足りるわけがないでしょう!」
と言うと、顔を背けて、
「食べたいなら、豊子さん、あなたも作りなさい!」
と人差し指を豊子に向けた。
豊子は、
「はあい。」
と、気の抜けた声で返事をすると、稲川を振り返り、にまにまと笑っていた。
その顔は、早苗には見えていない。
早苗は二人から顔を逸らしたまま、さっさと仕事部屋にいる稔の所へ行ってしまった。




