第六十五話 稔という男 7
その夜から、稔は早苗を抱きしめて眠るようになった。
従軍時の恐怖が残っているのか、人肌に触れていないと眠れなかった。
そして、見るつもりのない夢を見続けた。
大陸に残された仲間たち。
稔の絵を見て、好き勝手に注文を付ける。
そして、聞いてもいない初恋の話を語る仲間。
それに茶々を入れる仲間たち。
港町を描いた初年兵。
みんな、帰って来ない。
涙が溢れた。
仮宿の旦那寺の庫裡は、他の人間も同じように間借りしていて、一人になれる場所はなかった。
だから、誰にも見られない便所の中で、何度も泣いた。
誰にもこんな姿を見られたく無かった。
生きて帰って来たことを恥ずべき事だと言われた。
戦争に負けたのはお前らのせいだと、見知らぬ人間に言われた。
稔はひとりで泣いた。
「俺は、みんなと生きて帰りたかった。」
無理だったと分かっている。
分かっているが、どうしても願ってしまう。
戦争に行ったのだ。
そして、負けたのだ。
全員が生きて帰ることは、最初から有り得なかった。
それが戦争で、それが兵隊だ。
分かっている。
それでも、誰にも死んで欲しくなかった。
馬鹿なことばかりしている奴等に囲まれて、国に帰りたかった。
ちくしょう。
見るつもりのない夢を見続ける。
隣に眠る早苗を抱き寄せて、もう一度眠りの中へ。
夢は楽しく、辛い。
俺の絵を見て笑う奴等。
それが好きだった。
夢の中なら、またそれが見られた。
目を覚ます前のまどろみで、みんな死んでいく。
何度も何度も。
時々、俺も死んでいる。
そして、目を覚まして、生きていることに安堵する。
そして、思う。
あさましい、と。
何がきっかけだったのかは、覚えていない。
気がつけば、絵を描いていた。
頼まれて金になれば、何でも描いた。
その中でも、女の絵は特に手をかけて描いた。
奴等に見せた絵よりも上手くなったぞ。
色も塗れるようになったぞ。鉛筆だけで描いていたあの頃より、見応えがあるぞ。
ああ、帰ってこないあいつらに、俺の絵を見せたい。
俺は絵を描く。
女の絵を描く。
亡き戦友たちの為に。
足元にひんやりとした感触。
炬燵のぬくもりの中で、半分夢を見たまま、目を覚ます。
夢の中で、戦友たちが言う。
『女学生の絵を描いてくれよ。』
稔は両目を見開いた。
炬燵の中で、早苗が水仕事で冷えた手を稔の足にあてていた。
悪戯っぽく、早苗が目を合わせる。
「女学生。」
稔は呟いた。
そうか。亡くなった戦友たちは、十年前から年をとっていない。
みんな二十歳そこそこの奴等ばかりだった。
稔は自分だけが年を重ねていたことに今更気がついた。
勝手に、戦友たちも一緒に老いていると思い込んでいた。
死んだ奴らは、年を取らない。
稔はようやく画集に使うモデルに相応しいイメージを掴んだ。
「女学生を描こう。」
二十歳のあいつらに、似合いの女たちを。
早苗が訝しげに、
「どうしたの?稔さん。」
と、言ったが、稔は寝ぼけ眼のまま、
「うん、女学生を描くんだ」
と言って、また眠ってしまった。
早苗はだんだん温くなった手で、稔の足首から上を撫で続けていたが、稔が目を覚ますことはなかった。
稔は正月休みで故郷から帰った稲川を捕まえると、豊子のホステス仲間を紹介してもらい、二十歳前後の女を何人か描いた。
そして、その絵を出版社へ見せに行き、正式に画集のモデルを集め始めた。
その年の小正月は、朝から稔は出かけて、早苗はひとり、自分の着物を縫って終わった。




