第六十四話 稔という男 6
人の亡くなる描写があります。閲覧注意。
稔は、「一枚だけ、描かせてやる。」と答えた。
初年兵は、僅かな休憩時間いっぱいを掛けて、描くのだろうと稔は思った。
だが、その予想を裏切り、初年兵は鉛筆を握ると一気呵成に描いた。
それは日本の港町の風景だった。
小さな画帖に、広々とした港が、穏やかな海が、漁に出る船が描かれた。
描き上げた後にじっと見つめると、初年兵は深く頭を下げてすぐに稔から離れていった。
衝撃だった。
稔が描く時間の半分にも満たない時間で、稔以上の画力で描き上げていった。
それは一陣の風で、稔の心を揺さぶっていった。
その初年兵たちも、半分以上が日本へ帰れなかった。
足の豆が潰れ、骨が見えた状態で歩き続け、死んでしまった者。
空から撃たれた者。
遅れたところに敵が追いつき、砲弾を受けた者。
自決した者。
港町の絵を描いた、あの初年兵の姿も、気がつけば消えていた。
ある頃から、敵の飛行機が来なくなった。
おかしいなと思い始めた頃、終戦の事実を知った。
その後、稔たちは捕虜生活を送った。
その捕虜生活ではぼんやりしていた稔の心が、帰国の船に乗ったあたりから、じわじわと痛みを覚え始めた。
稔は言葉も忘れて、生きることを望み、そして生き残った。
その間に、稔の絵を褒めた奴も、下手くそと笑っていた奴も、故郷の見知った女に似ていると頬を染めた奴も、皆、みんな居なくなっていた。
稔は船の中で、ずっと考えていた。
稔は、船を降りて四年ぶりに内地に立つ事が出来た。
まだ海を越えて、汽車に乗らないと早苗とは会えない。
それでも、帰ることが現実となり、喜びに打ち震えた。
しかし、静かに感動する稔の耳には、離れていた間に起きた事が切れ切れに入ってきて、胸をざわつかせた。
特殊爆弾に、空襲。車窓から見える景色は、一変していた。
その様相は、稔の心の内と同じに思え、さらに稔は胸を痛めた。
戦地で見慣れた何かが、戻った場所にも落ちている。
帰りの船で知り合った稲川は、黙り続ける稔と一緒に、ただ車窓を眺め続けていた。
早苗は無事だろうか。
正常な心の動きをし始めた稔は、だんだんと恐怖に縛られていった。
早苗の為に死ぬと決めていたが、その早苗自身の無事は疑うことがなかった。
戦争は戦地に赴いた男たちだけが殺されるだけで、女たちは無事であると、何故か根拠もなく思っていた事に気が付いた。
それは稔の心の防衛反応で、早苗の死亡を考えてしまえば、もう指一本動かすことも出来ないまま、死んでいただろう。
だからこそ余計に、出迎えた早苗を見た途端に、本当に心の底から力が抜けた。
互いに身体が痩せ細ってしまっていたが、五体満足で再会出来たことを心から喜んだ。
生きている。
早苗が生きている。
それだけで稔は帰ってきたんだと、実感を伴って理解できた。




