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第六十三話 稔という男 5


人の亡くなる描写があります。閲覧注意。


 






 あと一日。


 あと半日。


 あと、一時間。


 あと、十分。


 あと、一分だけ。


 あと、数秒だけでも。


 生き残る為に。


 ただ、それだけのために。

 稔たちは、歩き続けた。





 歩き出す前に、出された命令。

 何も知らない兵の一人である稔と、同じくただの一兵である仲間たちは、素直に従った。


 私物をまとめ、そして命令通りに、すべて内地へ送り返し、遺書を書いて、提出した。

 この時、多くの兵隊が死を予感しただろう。


 その中で、稔は画帖と鉛筆を大事に背嚢の中に隠し持った。

 米俵半分と同じ重さの荷物を背負って、ひたすらに歩く中、余計な物は捨てるべきだと分かっていた。


 それでも、稔には手離すことは出来なかった。

 稔にとって、絵を描くということが命に等しくなっていた。


 戦地に赴いた後で、絵描きとしての覚悟を知ることになったのは、皮肉以外の何物でもなかった。

 国の為に死ぬべき兵が、絵の為に生きようとしている。


 稔はかつての女たちが言った言葉通りだと思った。


『兵隊なんてあなたには無理よ。』


 稔には、兵隊は向いていない。

 つくづく、そう思った。






 気がつけば、稔は何かを失っていた。


 頭も両手足も揃っている。


 足の裏が痛い。


 肩に掛かる荷物も重い。


 だが、それとは違う。

 何も欠損していない。


 それなのに、確かに何かを失い、損なわれたと、気が付いている。


 藤村稔として、生きてきたその中身の何かが。


 ただ、あと僅かな時間、命永らえることを瞬間的に選び、それを手にして生きることを繰り返してきた。


 その為に、失った何か。


 原因も理由も分かっている。




 それなのに、何を失くしたのか。それが分からない。




 もう無いのだから。




 失くしたものを仕舞っておいたはずの心の場所も、一緒に失ったのだ。


 だから、何が無いのか。それも分からない。


 生きる為の一歩の間に、隣にいた奴の姿が消え、遠くで爆発音がする。


 自決用の手榴弾が使われたのだ。

 もう持ち帰ることの出来るものは、飛び散った中にある指だけ。


 そして、もう一歩進もうとする間に、永遠にも思える長い連続した射撃音が耳を打つ。その後には倒れた仲間の姿。

 駆け寄ることも許されない。


 耳に残るのは、「かあちゃん」と叫ぶ末期の声だけ。


 稔は己が生きることだけを選んだ。


 金も何も無い中で、食べ物を見ず知らずの異国の家から持ち去る自分の姿。

 それは悪夢でも何でもなく、(うつつ)の稔の姿だった。


 何人も殺したのだと思う。だが、それを確認したことは一度もない。

 ただ、殺されない為に無我夢中で歩き続けた。


 そして、眠りにつく時は、必ず誰かの体にくっついて眠った。

 ひとりで寝てしまえば、隊が出発したことに気がつかず、そのまま敵に見つかり死んでしまうからだ。


 仲間の為に、すべての仲間の為に、手を伸ばし続けることも、立ち止まることも出来なかった。


 それをすれば、次に死ぬと分かっていたから。


 死ぬな。

 死なないでくれ。


 その言葉が出るうちはまだ良かった。


 まだ歩き始めた頃には、稔の画帖を見て喜ぶ初年兵たちの姿があった。

「十六になったばかりの妹に似てます。」

「結婚を約束した人がこんな顔です。」

「学校に行っていた頃に、世話になった娘を思い出しました。」


 素直に私物をすべて送り返した純朴な青年たちが、稔の画帖を見て、故郷を思い出しては頬を染めていた。


 その中でひとり、美術学校出の初年兵がいた。

 古年兵の稔の画帖を見るなり、殴られるのを覚悟した顔で懇願してきた。


「一枚だけ、描かせて下さい。」















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― 新着の感想 ―
[一言] 失くしたことは、わかるけど。 何を失くしたのかは、わからない。 壮絶。
[一言] >ひとりで寝てしまえば、隊が出発したことに気がつかず、そのまま敵に見つかり死んでしまうからだ。 何と過酷な……( ˘ω˘ )
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