第六十二話 稔という男 4
美術学校も出ていない稔の絵に興味を持ったのは、ただの暇潰しだろう。
復員後の今、稔はそう思う。
だが、当時の稔にとって、気まぐれでも、暇潰しでも、理由はなんでも良かった。
絵を描ける。それだけで充分だった。
画家は、稔に風景の描き方は見て覚えていけばいいと答え、人物画の方に力を入れて教えてくれた。
稔は画家から貰った四寸四方の塊のような画帖に、女の絵を描き続けた。
「男は軍隊の中で、見慣れていて描けるだろう。なのに、何故か君は女の絵が上手いな。」
市街へ画家と二人で行けば、ひたすら女の絵を描いた。
描いた絵をあげて礼を言われることもあれば、物を買うようにと強請られることもあった。
総じて、画家が相手をして終わった。
その画家も内地へ帰ることになった。
「これまでありがとう。使わなかったから、君にあげるよ。」
最後の気まぐれで渡されたもうひとつの画帖。
それが稔のその後を変えた。
相変わらずの稔だったが、僅かな休憩時間に女の絵を描いて、初年兵仲間へ見せていたところ、古年兵にも噂が伝わり、注文が来るようになった。
写真や慰問袋に入れられた写真付きの雑誌では足りず、故郷に残る片想いの相手を描いて欲しいとこっそりと言いにくる男たちが存外多かった。
稔は早苗がいる身であるから、その心持ちがよくわかった。
所帯を持たないまま、ここに来ていたら、きっと稔は早苗を描いて自分を慰めていただろう。
目元がこうで、鼻筋がああなっていて。熱心に想い人の容姿を口にする兵たち。
稔は、絵を頼まれて描いて渡すことで、集団の中である程度の居心地の良さを作り始めていた。
そして気付けば、稔も古年兵になっていた。
初年兵の苦役に耐えた後の穏やかな時間は、ほんの僅かだった。
戦地にいるのだということは、稔の頭から出て行くことはなかった。
生きること。
相手を殺すこと。
自分で死ぬこと。
それらは常に混在して、どれか一つを取り出すことは難しかった。
生きている間は、一人でも多くの敵を殺すこと。
国の為に死ぬこと。
生きて虜囚の辱めを受けぬこと。
渡される手榴弾は二つ。その意味は、それらと同じで、国の為に敵を殺して、敵に殺される前に自決すること。
受け入れ難い現実から目を逸らしてもいい時。そんな時は、唄や踊りが稔と仲間たちを楽しませた。
ある時、教育期間を共に過ごした水谷が、任務の都合で稔のいる隊へやって来たことがあった。
朝鮮の方へ配属になった男が何故稔の隊が居る中国にやって来たのか。本人も分からないらしい。ただの一兵に過ぎない身分だ。そういうものだなと思った。
そして、夕食後の休憩時間に期待していたことが始まった。
安来節だ。
水谷は手ぬぐいでほっかむりをすると、鼻の下できゅっと結んだ。
そして唄に合わせて踊り出した。
芸達者な男は、いつも人の中心だった。普段は何のこともない男であるのに、ひとたび、人に囲まれて唄に合わせて踊り出すと、妙におかし味が増して、目を離せなくなる。
朝鮮で覚えたのか、外から摘んできた花を手に持ち、花売りに見えるように布をうまい具合にまとうと、アリランを唄い出した。
初めて聞くその拍子に、もう一度と声が掛かる。水谷は高々と花を上にあげると、また朗々と唄い出した。
稔は相変わらずの水谷に、羨望と嫉妬を抱かざるを得なかった。
普段は稔と代わり映えのない水谷が、唄と踊りで一夜にして地位を築いた。
稔が一年以上掛けて、ようやく作り上げた周囲との関係を水谷はいとも容易く手に入れてしまう。
踊り終わった水谷は、人に囲まれるとどこかへ行ってしまった。
就寝前に、便所で一緒になった時にようやく声を掛けられた。
「藤村。相変わらずだな。」
「水谷は更に芸達者になったな。」
「ははっ、違いない。」
それじゃあまたな、と昔と同じ言葉で別れた。
それから今まで、再会していない。
稔は素直に、水谷の踊りと唄を褒めておけば良かったと、後になって思った。




