第六十一話 稔という男 3
徴兵検査で、稔は現役兵になれなかった。
もう一度やり直せばと、稔は腕の完治を待ったが、今度は下剤を盛られ続けた。
「兵隊なんてあなたには無理よ。」
「体が弱いの。そうよね?」
抵抗する稔に、女たちは言った。
「犯罪者になれば、兵隊にはなれないわ。今から、捏造してみましょうか?」
誰かの家を燃やし、火をつける稔を見たと、女たちが全員口を揃えて言えば。
女たちは躊躇いを見せなかった。
稔は抵抗すら出来なくなった。
その稔が早苗に守られて、女たちも手を出せなくなっていた。
そして、受け取った赤紙。
正月でも何度も話題になった。十二月に始まったアメリカとの戦争。
そのあたりから、どんどんと、兵隊になる人間が増えた。
まさかと思った。
稔だけは兵隊になれないと、思い込んでいた。
守りたい早苗という存在を手に入れて、このままそばに居られると思っていた。
だが、守られた結果、稔を兵隊に出すことを良しとしなかった女たちが結託して、事前に稔の召集に対してなんの妨害もしなかった。
女たちは、早苗のせいで、稔に手を出せなくなった。それならば、早苗からも稔を遠ざけてやろうと、稔自身の命を使って早苗と稔に復讐することにしたのだった。
こうして、稔は早苗に守られ始めたことで、初めて兵隊になることになった。
入営までの一週間。
稔は早苗と一緒に写真を撮り、小さな画帖に、丹念に早苗を描き留めた。
早苗を忘れないように。
早苗が稔を忘れないように。
ただ、早苗の為だけに、早苗を守るためだけに、稔は兵隊となることを決めた。
稔の命を差し出せる相手は、早苗以外になかった。
数ヶ月の教育を終えて、稔は陸軍の初年兵として、中国へ渡った。
そこでも稔はいたぶられた。
初年兵であることが第一の理由だったが、稔には他にも要因はあった。
整った顔とそこそこの上背。それにどこまでも優しく気の弱い気質。
集団の中で、常に弱者だった。
そこに、救いの手が差し伸べられた。
尉官の従軍画家が、出来れば稔をそばに置きたいと指名したのだ。
モデルとして扱うつもりだったのか、ただの気紛れだったのか。
軍隊の中で一人だけ取り出すわけにもいかず、配置替えとして稔の身は忖度の結果、動かされた。
画家は今年の冬にある陸軍美術協会共催の戦争美術展に出展するため、従軍していた。
その画家のスケッチを横から見ていた稔は、絵を描くとはこういうことかと、初めて見る心持ちでいた。
小さな画帖の中に、画家の手による鉛筆で、目の前の広大な景色が収められていく。
指定された格好でいる稔を強く見つめるような、それでいてもっと大きなものを見ているような。
画家の目とはこういうものかと、稔は思った。
稔は間隙を見つけては、持参していた小さな画帖に、画家の真似をして描いた。
色々と出来なさすぎて、涙が出た。
毎日目の前で繰り広げられる画家の描く素描に、稔は遠く及ばなかった。
軍隊に来たのに、絵描きになろうとしている自分にも滑稽過ぎて涙が出た。
早苗を守るためなら命を賭けてもいいと、兵隊になりながらも遠くに来ただけだった。果たして、早苗を守ることが今の自分に出来ているのか、甚だしく疑問だった。
その稔を見ていたのか、ただの気まぐれなのか。
画家が言った。
「君も絵を描くのか。見せてくれ。」




