第五十九話 稔という男 1
薄い雲が端にたなびくだけの快晴の元旦。
藤村家の玄関には、簡素な松飾り。
小さな神棚には新しい榊の枝。
そして、小さな鏡餅。
早苗は南天を茶箪笥の上に飾り、正月の準備とした。
普段以上に拭き清められた室内。
賑やかさも来客の予定もない。
ただ、久間木宅へ夫婦で挨拶へ行く。
稔は藍染の羽織付きの着流しを着ていた。
これは珠代が寄越した反物を年越し前までにと、早苗がせっせと拵えたものだ。
反物には「虫除けにどうぞ」と万年筆で書かれた珠代からのカードが一緒についていた。
藍染自体の虫除けの効能というよりは、揃いの着物で余計な女を寄せ付けない効果を示しているようだった。
「直接、自分で持ってくればいいのに。」
早苗がぶつぶつと文句を言いながら、さっそくあつらえる準備をし始めたのを見て、稔は苦笑したものだ。
珠代がもう来ないということは、稔も聞いていた。
それを本当は寂しいと思いながら、素直に認めていない早苗。
その寂しさを紛らわせるために、稔が正月に着るためにと、さして急ぐ必要もないのに、さも忙しいようにずっと針を持っていたことを稔は知っている。
本当なら、早苗もお揃いで着られれば良いのだが、さすがに間に合わなかった。
稔がそれを残念だと思った時に、頭をよぎったのは、
『反物を揃いで買えるようにしてやりたい』
という仄暗い欲だった。
今まで抱いたことのない欲を自覚して、稔は少しだけ自分に驚きを感じた。
稔と早苗が久間木宅に挨拶へ行くと、玄関に入った途端に酒席に呼ばれた。
好々爺の顔をさらに血色を良くさせた久間木と、息子の敬蔵が座敷で待っていた。
「藤村さんには、かつ子の時といい、色々と世話になっていますからね。もう身内みたいなものですよ。はっはっは」
何人か来客が来た後だったのか、既に酒の入った久間木が上機嫌に笑う。
「それにしても藤村さん。今日は正月のせいか一段と男っぷりが良いですね。おや、珠代さんの寄越した反物を。ほほう。早苗さんも上手に縫うものだ。二人で揃いを着たら、さぞお似合いでしょうなぁ。」
ひとしきり喋り、また久間木が笑う。
「ええ、その内縫い上がると思いますので、また伺いますね。」
早苗が盃をそっと伏せながら答えた。
今日の早苗は、手持ちの中で一番新しい着物を着ているが、稔の藍染の着物に比べると数段落ちる。稔が真新しい着物を着て上機嫌の早苗だが、稔自身の胸中は着物ほど綺麗なものではなかった。
金が欲しい。
急に湧いた欲が、再び稔の中で大きくなった。
一時間ほど膳を囲み、新しい来客が来たのを潮に、早苗と稔は家へ帰った。
稔は羽織を脱いで、綿入り半纏を着ると炬燵へ入った。
洋酒も途中で口にしたせいか、体がもったりとしている。
今年の正月は、青く晴れている。
日の当たる縁側の方に頭を置き、障子越しに陽を浴びる。
今から、十年以上も前。
早苗と所帯を持って、初めての正月。
何をするにも互いのやり方が違っていて、ひとつひとつ確認しては驚きを共有した。
今でも胸をふっくらとさせる楽しい思い出だった。
その正月を終えて、小正月になる前に、稔の元へ赤紙が届いた。
早苗と所帯を持って一年も経たない時だった。
兵事係の少年は、寒さで頬を赤くして、
「召集令状を届けに来ました。
おめでとうございます。」
と、まっすぐ稔の目を見て言った。
その目は、ただ己の職務遂行に誇りを持つ澄んだ少年の瞳だった。




