第五十七話 冬越しの桜 3
昼の前に、珠代は迎えの車で帰る。
豊子は珠代の作った大量の料理を少しでも減らすために、昼食を食べてから帰ることになった。
すっかり軽くなった荷物をまとめると、珠代は曇り空の下、桜の木へ向かった。
梢の形も剥き出しに、葉のない桜は悶えるように枝を空に伸ばしていた。
早苗がこまめに掃き清める庭に、落ち葉も無い。
桜の下にある紫陽花も、ただの枯れ枝のように生えている。
吐く息は白くはない。まだ陽の中の気温だ。
桜を見上げる珠代の横に早苗は立った。
「こんな桜を眺めて何が楽しいんですか。冷えるから中に入って下さい。」
肩をすくめる様にして早苗が言う。
それを見て珠代はふっと息を吐いて笑った。
「素直じゃありませんわね。」
「寒いから寒いって言ってるんですよ。素直ですよ。」
早苗は少しだけ自分より背の大きい珠代を、下から睨んで言った。
「まあ、そうですわね。早苗さんは素直ですわね。
桜をまた見られるといいのですけれど。」
「そんなに桜が好きなの?」
「この桜の木が好き、というのが近いかしら。久間木さんのお父様が亡き妻の為に植えたというのが羨ましいのですわ。」
珠代はまた桜を見上げると、独り言のように続けた。
「私は夫を戦地で亡くして、亡骸も何もありませんの。偲べるものがないのですわ。
家も米軍の方で求められて、立ち退きましたの。思い出に繋がる物が、本当に僅かなものばかりで。
それが久間木さんからお話を伺って、木を植えるというのも、いいものかもしれないと思ってしまって。
でも、私が亡くなった後に誰も引き取り手がありませんからね。何も持たない方がいいのかもしれませんわ。
おかしいわね。
執着するものが自分の命だけになっても、他にも抱える物を欲しがるなんて。
傷つけたり、なくしたりするくらないなら、最初から持たない方がいいのに。」
曇った空にぽつぽつと放つ言葉は、珠代の中で普段は隠しているものばかりだった。
早苗たちにはもう会えないと決めてから、どうにも感情的になってしまっていると、珠代は思った。
その珠代をじっと見ていた早苗が言った。
「もしかして、かつ子ちゃんが迷子になった事に、責任があると思ってませんか?」
珠代は驚いて目を開くと、おもわずといったように早苗を見た。
「…そんなことは、ありませんわ。…違いますわ。」
「そうでしょうか。なんだかそんな風に思えますけど。」
早苗は面白くもなさそうに言った。
珠代は少し膨れた顔の早苗を見て、破顔一笑した。
「まあ、私が来ないことをそんなに憂いてくれるだなんて。早苗さん。私、嬉しいわ。」
「違いますよ。言ってませんよ、そんなこと。」
「あらあら、そうかしら。私の思い違いかしら。」
「そうですよ。勝手な事を言わないで下さい。ほら、もう寒いから中に入りましょう。」
早苗は頬を染めながら、珠代に背を向けると、ずんずんと家の方へ歩き出した。
珠代はその背中をにやにやとした顔で見送ると、早苗の姿が建物の中に入ったのを見計らって、そっと目元を指で拭った。




