第五十六話 冬越しの桜 2
慣れない紅茶を口に含み、早苗がしぶしぶ菓子をつまむ一方で、ぱくぱくと食べる豊子。
「豊子さん、あれだけのお酒を呑んで、どうしてお菓子まで食べられるの。」
早苗は呆れた顔で言った。
「たくさんのお酒を呑むと翌朝は食欲が落ちる方が多いですものねぇ。」
珠代が今更になって驚いた顔で言った。
「そうなんですか?お酒を呑んだ後は、とにかく汗をかいて寝るせいか、朝起きるとお腹が空いてるんですよね。」
さくり、と音を立てて豊子が焼き菓子を食べる。
早苗はうっそりと下がり眉を顰めた。
「そんなに大酒呑みの大食漢では、稲川さんのおうちの方々もびっくりするわね。」
途端に豊子が噎せて、咳き込んだ。
「あらあら、豊子さんたら、もうすっかり稲川さんのお嫁さんになる気になってますわね。ほほほ。」
珠代が堪えきれないように笑みをこぼしながら、豊子の背を撫でる。
早苗はその珠代に向かって、眉を顰めたまま、言った。
「それに、珠代さん。もう来られないってどういうことですか?」
今度は珠代の動きが止まった。
咳の止まった豊子が、顔を赤くしたまま、背中にある珠代の方を振り返った。
「え!珠代さん、来ないんですか?年末年始で忙しいんですか?お仕事が立て込んでるんですか?」
「ええ、ちょっと、しばらく、いえ、だいぶ間が空かないと来られないような。」
「えー!まだ稲川さんに返事をしてないのに!これからの相談とか珠代さんにしたかったのに!なんでですかっ!」
豊子が炬燵から膝を出して、珠代に詰め寄った。
「そうね。仕事がね。」
珠代は豊子に両肩を掴まれて、ぽつりと答えた。
「珠代さんの仕事って、何ですか?」
豊子が真正面で見つめながら、尋ねた。
早苗もそこは興味があったが、わざわざ訊くのも癪なので黙っていた。心の中では、豊子のまっすぐな物言いを後押ししながら、珠代の返答をじっと待った。
珠代はしばらく言い渋っていたが、豊子から少し顔を逸らすと、
「はっきりとお答えは出来ませんわ。…人を相手にした商売かしら。
そうね、歩哨のようなものね。」
と、寂しそうに言った。
豊子も早苗も全く訳が分からなかった。
「兵隊さんじゃないですよね?珠代さんは。」
両肩を押さえたまま、豊子が言った。
「そうね。違うわね。でも、似たようなものよ。
見ること、知ることが求められて。でも、決して行動を決める事は出来ないの。
水のようなものね。誰かがやらないといけない。下水道がどうなっているのか、誰も知らないけれど、誰かがやらないといけないのよ。」
珠代は豊子と顔を合わせて、肩にある両手をそれぞれ掴むと、この話はおしまい、と言うように、にっこりと笑みを作った。
「これ以上はお教え出来かねるわね。
でも、豊子さんのお仕事の方が素敵だと思いますわ。男性に女性を求められて、楽しい時間を与える。ほんのひとときの夢を見せられるのですもの。」
そして、少し悲しそうに笑みを浮かべると、目を伏せた。
「亡くなった主人に、もう一度会えるのなら、私がホステスになってもてなすのも、楽しいかもしれませんわね。」
珠代らしい感傷の示し方に、早苗も豊子も相槌すら打てなかった。
豊子は黙って、珠代の両手を肩から外すと、そのまま自分の両膝の上に載せて、ぎゅっと握った。
「じゃあ、アタシが稲川さんのお嫁さんになって、里帰りに来る頃には会えますか?」
「それも、分からないわ。」
珠代は目を伏せたまま、小さな声で答えた。
その後にすぐ顔を上げると、
「でも、豊子さんなら。きっと綺麗な花嫁さんになりますわ。
大丈夫。
何も不安になることは、ありませんもの。豊子さんなら、大丈夫。私が請け負いますもの。」
はっきりと真剣な表情で言った。
豊子は急に熱をもったように、目元を紅くしたが、両手を珠代に取られたままだったので、隠す事も出来ずに、口をこわばらせて、黙っていた。




