第五十四話 夢の中の豊子 2
出征を祝い、兵隊になった豊子の好きな人も、どこかで生きているのではないかと。
帰って来ないのは、南の向こうの女と暮らして子どもでも出来たからではないかと。
まだ引揚者の帰国船も来ている。
だから、何処かで生きている。
その欺瞞も、終わってしまった。
同じ戦場にいた人が最後に見た話を伝えに来たらしい。
それは、どう考えても死んだとしか思えなかった。
豊子は待つことも許されなくなってしまった。
そして、否応無しに豊子もそのままで居続けることも出来なくなってしまった。
葬式も初七日も終わり、父の居なくなった家には、復員兵の二番目の兄夫婦の家族が入ってきた。
家を継ぎ、墓を守る二番目の兄の邪魔にならないよう、豊子は自分で金を稼ぐため、家を出た。
その先で出会ったキャバレーの姐さんたち。
旧満州からの引揚者の多い姐さんたちの前で、豊子は恵まれた環境を恥じた。
姐さんたちもすべてを話してはいない。
それでも、豊子には受け入れられないほどの過酷さをその身に受けて生きてきたことは分かった。
どこまでも沈み込み、跳ね返ってくることのない深い底の分からぬ何かが姐さんたちの中にはあった。
豊子は尚更、兄夫婦の死を受け入れようとしなかった己の弱さを恥じた。
そこそこに食べ物は手に入った。
家も焼けなかった。
父も兄夫婦も死んだが、二番目の兄の家族たちがいる。
夜働いて、昼は眠って起きたら、ご飯を食べる。
忙しくはあるけれど、何も不自由をしなかった。
その過不足のない生活を、豊子は人に言ってはいけないと思った。
大変な思いをした人がたくさんいる。
その人たちは、これから幸せになるべきだ。
豊子は、出兵したまま帰って来ない男を想いながら、独り身で終わることが、自分には相応しい人生だと、そう思っていた。
そんな豊子に稲川の求婚は、思いもかけないものだった。
思いがけない話で、理解するまでが大変だった。
そして、それに対し、ここまでの心の揺れを感じている豊子自身に驚いていた。
これでは、まるで稲川と結婚したいようではないか。
豊子にとって、認めてはいけないように思えた。
だが。
「豊子さん、あなたが稲川さんをお好きなら。
少しでも幸せであって欲しいと思うのなら。」
珠代とふたりきりになった時に、言われた言葉。
「稲川さんを幸せにする力を持っている豊子さんは、どうすることが一番いいのかしら?」
珠代はにっこりと笑った。
「もう、お分かりよね?」
夢の中の、笑う義姉の顔が珠代になった。
暁闇の中、豊子は目を覚ます。
起き上がり、土間へ降りて便所へ向かう。
汗をかいた寝巻きに朝の寒さが染みる。
吐いた息は白い。
豊子は夢の中にいるような足取りで戸を開けた。
布団に戻る前に、水を飲む。
水瓶の中から汲んだ水は、豊子の体を真っ直ぐに刺すように冷たかった。
夢からは覚めている。
豊子は布団にのそのそと入り、じっとしていた。
すると、静かな部屋の中で、両側から早苗と珠代の寝息が聞こえる。
「にいちゃんとねえちゃんが居るみたい…」
ふっと笑うと、豊子は夢のような心持ちで、目を閉じてその音を聞き続けた。
再び見た夢は、醒めると覚えていなかった。
ただ、幸せな夢という感触だけが、豊子には残った。




