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第五十三話 夢の中の豊子 1



 酒は好きだ。


 呑んでも呑んでも、ふわふわとした心持ちが続くだけで、苦しい思いが何もないからだ。


 呑み始めたのは、東京に来てから。

 それまでは、一杯も飲まなかった。





 

 豊子は今、夢を見ている。

 分かった上で、そのままにしている。

 いつかの記憶だ。


 十歳くらいの小さな豊子。


 それをにこにこと見ている兄とその奥さんである、義姉。


 三人が同じ部屋に、一緒に居る。


 布団を並べて、蚊帳の中。


 暗い部屋で、こそこそおしゃべり。


 時々、兄の大きなおなら。


 笑う声。


 朝起きて、豊子の寝癖を笑う義姉。


 それを直す手。


 その柔らかい目線。


 取り止めのない、穏やかな朝。






 豊子は兄と姉と言うので、周りは豊子の上に二人の兄姉がいると思っていた。


 実際は、豊子の説明不足で、兄夫婦が正しい。


 それでも、豊子にとっては同じようなものだ。


 実の兄と姉。

 そのように思っていた。




 だから、いつも兄夫婦の家に泊まっては、二人がお酒をにこにこと呑んでいるのを見るのが好きだった。


「にいちゃん、いっぱい呑むね。」


「鯨の生まれ変わりだからな。」


 わははと、笑うまでが、いつもの兄の口癖だった。


 鯨のように大きい口で、いつも豊子と姉を笑わせていた。





 この兄は一番上の兄で、歳が二十も離れていた。


 外から見れば、親子のようだと言われ続けていた。


 しかし、豊子の中の父親は、年老いた男の印象が強く、兄は若々しい「お兄ちゃん」に間違いがなかった。


 その兄夫婦が、特殊爆弾で死んだ。



 詳しいことは分からない。



 豊子がまだ学校に通っている年に、兄夫婦は義姉の家を継ぐために、婿養子縁組をして遠い西の方へ行ってしまった。


 手紙だけのやり取りで、数年。


 子どもから大人になりつつある豊子の姿を二人は知らない。


 兄夫婦の養子になった、義姉の親類の子どもの顔を豊子は知らない。


 何もかもが、夢の中の話のようだった。






 豊子は、空襲で焼け出された親類の面倒や手伝いをしながら、兄夫婦の訃報を聞かなかったかのように、日々を過ごした。


 年老いた父は、兄夫婦のいる西へ行こうとしたが、すぐには行けなかった。


 玉音放送の後、生活に追われて遠出をする余裕が無くなったのだ。





 父が、兄夫婦の墓に線香を供えに行けたのは、何年も後だった。


 その翌年、父は亡くなった。




 豊子は、父に一緒に行くかと聞かれて、断ったことを通夜になって初めて悔いた。


 父を一人で墓参りに行かせたこと。


 未だに兄夫婦の死を認めずに済めばいいと思っていたこと。


 それは豊子の中に(こぶ)として残った。


 線香を絶やさぬように、父の亡き骸の横で、ほとほとと泣きながら、ひとり悔いた。






 墓参りに行けば、兄夫婦の死を認めることになる。


 行かなければ、死んだこともならず、兄夫婦はどこかで生きている。



 そう思える。



 それが幼い考えであると、父の死を見て、豊子はようやく気付いた。


 死は、いつだって不意打ちに、目の前に確固たる事実として、放り投げられる。


 さっきまで柔らかかった存在が、最期の息をひとつ吐き出すと、どんどん固まっていく。


 かさかさの温かい肌が、だんだんと冷えていって、光を失う。



 死を認めないのは、石を殴り続けることと似ている。


 拳で割れることがないと知りながら、石が割れることを目的にして、更に痛みを増す行為を繰り返す。


 拳を振り下ろす間は、石が割れない事実を見ないフリが出来る。


 どれほど傷ついても、痛みがある限り、まだ石が割れるかもしれないと、あり得ない結末を望み続けることが出来る。



 どれほどの痛みと出血を伴おうと、拳を石にぶつけ続ける限り、事実を受け入れずに済む。



 それと同じで、兄夫婦の死を認めない間は、まだ豊子の中では、兄夫婦は生きているとすることが出来ると、豊子は知らず知らずの内に考えていた。


 狂った頭ではない豊子が、欺瞞に胸を痛めながらも、兄夫婦の死から目を背けていた。



 けれど、限界が訪れる。



 ある時、拳の方が割れる。


 ぼろぼろになった血まみれの拳で、痛みを堪えながら、目を背けていた死と向き合うことになる。




 豊子は父の死を受け入れ、兄夫婦の死と向き合おうとした頃に、ある雑誌を見て、また悔いることになった。


 GHQの検閲が無くなった夏に、原爆被害の写真が誌面に出た。


 衝撃が豊子の中に落ちた。


 この中に兄夫婦がいたのか。


 兄夫婦の最期を父に聞くこともなかった。


 父も兄夫婦も死んでしまったのだ。


 何年も会わずにいれば、これから先も会うことはないだろうと、そう思い込めば。


 死んでいないのではないかと。


 その欺瞞を。


 豊子は砕かれた。









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― 新着の感想 ―
[一言] >死を認めないのは、石を殴り続けることと似ている。 この表現すこ( ˘ω˘ )
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