第四十六話 火の守り番 8
人の亡くなる描写があります。閲覧注意。
「橋の上で、お父さんが言ったの。
お前たちだけでも、川へ飛び込めって。
いくら私が泳げるからって、無理よ、って。
五歳の子どもを抱えて泳げるわけがないじゃない。
そうしたら、お母さんが自分の防空頭巾を外して、私の頭に被せたの。
何にも言わないの。
黙って、紐を、結んで。」
珠代の啜り泣く声が聞こえた。
それでも珠代は話し続ける。
「横を見たら、お父さんが水筒を娘の肩に掛けていて。
紐が緩いからって、きつく水筒の肩掛けの紐を。
ぎっちり、結んで。」
珠代の鼻を啜る音が響く。
「何も言わないのよ。
何も言ってくれなかったのよ。
それなのに、橋の欄干の方にどんどん私たちを押して。
私が頷いたら、頷き返して。
欄干を跨いで、子どもを片手ずつ抱えたら、もう私の手は空いてなくて。
橋から飛び降りたら、橋の上は真っ赤になってた。」
早苗は小窓を背にして、黙っていた。
閉じた風呂の焚き口から、ぱちりと音が漏れた。
しばらく、黙り続けて、早苗が言った。
「子どもは、どうしたの。」
水音が、ばしゃばしゃと響く。
「…息子は死んだわ。
あの水の冷たさに耐えられなかったみたい。
川から出たら、もう動かなかった。
娘は、分からない。
上から落ちてきた人に当たって、手が離れてしまったの。
後で服が一枚だけ見つかったわ。
娘の名前が縫い付けてあったから。分かったの。
だから、きっと、死んだのね。」
早苗は何も言わなかった。
風も吹かない。
風呂焚きに向いた夜だ。
「お湯加減は、どう?」
早苗は聞いた。
「ええ、大丈夫よ。
ねえ、早苗さん、お願いがあるのだけれど、聞いてくださらない?」
早苗が小窓を覗くと、湯船で悪戯っぽく笑う珠代が居た。
「背中、流して貰えないかしら?」
湯気を挟んで、早苗がこくりと、首を縦に動かした。
早苗は風呂場の入り口にある踏み台で素足になると、中へ入った。
袖は帯に挟んだ。
珠代が真っ白な背中を向けて、木の腰掛けに座っていた。
「そこにある手ぬぐいで。石鹸がつけてあるから、そのまま出来ますわ。」
珠代は振り返ることなく、早苗に言った。
早苗は黙って洗面器に入った手ぬぐいをとると、珠代の背中の前にしゃがんだ。
ぼんやりとした電灯の下、珠代の背中は光を放っているように見えた。
早苗はゆっくり背中に手ぬぐいを当てて、撫でるように拭った。
石鹸が肌を滑らせる。
だんだんと、広く手ぬぐいを動かす。
肩にもあてる。柔らかい腰回りにも手ぬぐいを当てる。
珠代は黙ったままだった。
早苗は手桶で湯を掬うと、珠代の背中にゆっくりと掛けた。
小さな泡が、珠代の背中から腰へと流れていった。
珠代が顔を俯けたまま言った。
「娘の名前、かなえ、って言うのよ。早苗さんと一文字違い。」
早苗は一度動きを止めたが、もう一度湯を掬って、背中に掛けた。
「私に似たのか勝ち気な子で。あの頃には何でも私に突っかかって来て。
あのまま大きくなっていたら、きっともっと私に噛みついたりしてきたのかしら、って。
早苗さんが嫌そうな顔をする度に、娘を思い出していたの。
ごめんなさいね。勝手に重ねて。」
珠代は背中を丸めると、膝を抱えて動かなくなった。
早苗は、
「湯冷めしない内に戻って下さいね。」
とだけ、声を掛けると、そのまま風呂場を出た。
その途端、珠代が嗚咽を漏らした。
早苗は身支度を整えると、黙って建物の外へ出た。
頬に雪が落ちる。
見上げると、空から白い雪が次々と降って来る。
空に舞い上がる赤い火の粉を早苗はまぶたに描いた。
しかし、目を開くと、白い雪がどんどん落ちてくる。
早苗はしばらく空を見上げて、立ち尽くしていた。
真っ黒い空の奥から、白い雪が放射状に早苗に降り続けた。
雪は積もることもなく、土に吸い込まれて終わった。




