第三話 珠代という女 1
雨音で目が覚めた。
早苗は隣に眠る稔の頬をひと撫でし、身を起こした。
今日は土曜日だ。
雨音よりも、曜日の方が早苗を憂鬱にさせる。
あの女が来る。
朝食後、羽釜についた煤を亀の子タワシで、力一杯擦る。
今、ここまで羽釜を磨く必要は、無い。
ただ、これから来る女の客が、早苗の頭の中に居座っていて、腹立たしい。
奥の部屋では、稔が仕事の絵を描いている。
着流しでだらしない恰好だが、水彩絵具を紙に載せる筆は、真剣そのものだった。
ふと、筆を止める。
一度、筆を置いてから首を僅かにかしげると、じっと絵を見る。時代小説の一場面か、着物の女が描かれている。
稔は椅子から立ち上がると、居間を通り抜け、土間へ下駄を履いて降りる。
早苗は仇を討つように、羽釜と格闘していて、背後に稔がいることに気がつかない。
稔の手が伸びる。
少し俯いた早苗の衿足の空いた首筋に触れる。すすっと肌を撫でる。
早苗が肩を震わせると、稔は
「そのまま」
とだけ言って、衿足からうなじへと指を滑らせる。
揚げ巻きで結われた早苗の髪は、パーマもあてられていないままの髪だ。その真っ直ぐなままの髪を撫で、今度は早苗の顎に指をかけると、後ろを振り向くように顔を上げさせた。
しばらく早苗の横顔を見つめたかと思うと、また何も言わずに離れていった。
椅子に戻り、筆をとる。
早苗は惚けた顔のまま、奥の部屋の方をずっと見ていた。
午後になり、大家の久間木が孫を連れて訪れる。
早苗たちが住んでいるこの家は、久間木の家の離れで、戦後数年は久間木の父親が住んでいた。
その後に、住むところを探していた早苗たちに貸してくれるようになった。
玄関先の軒下で、小学校に入ったばかりのおかっぱ頭の女の子が、もじもじと久間木の着物の陰に隠れている。早苗は、それを見て目を細めると、声を掛けた。
「こんにちは。雨の中、おじいちゃんと一緒に来られて大変だったでしょう。」
「こ、こんにちは。」
「はっはっ、かつ子がどうしても一緒に行くと言いまして。代わりに荷物を持たせてやったんですよ。ほら、かつ子、ちゃんと藤村さんへ渡しなさい。」
着物の陰から、風呂敷に包んだものをかつ子が早苗に向けて差し出す。
早苗は土間の方から一歩近付き、風呂敷を両手で受け取った。
「ありがとう、かつ子ちゃん。」
下がり眉の目を優しくすがめながら、早苗が笑みを向ける。
かつ子は顔を赤くしたまま、おかっぱ頭を揺らして頷くと、また久間木の着物の陰に隠れた。
「あらあら。」
「どうも美人さんに弱いらしいねぇ。かつ子は。」
「まあ、後厄も終わったおばちゃんですよ。」
「はっはっ、何を言いますか。早苗さんがおばちゃんなら、還暦を迎えた私なぞ、もののけの類いですよ。そちらは還暦祝いの品の返しもので、大したものではありませんが、手ぬぐいです。ちょっと知り合いが作ってやるからと押し切られましてね。」
「あら、わざわざすみません。」
早苗がお茶でもどうぞと、久間木とかつ子を居間へ通そうと身を引いた時、塀の向こうで車が停まった。
視線をやれば、傘をさした女がひとり。
あの女が来た。
早苗はうっそりと、眉をしかめた。




