第三十八話 雪の終わり 7
お針子たちのいる座敷と隣り合った部屋で、女将は帳簿を付けていた。
名残り雪のような弱い雪は残る事もなく、気がつけば障子が明るくなっていた。
伝票の整理も終わり、早苗の帰りもそろそろかと顔を上げた所に、慌ただしく襖が開いた。
火鉢に刺したままの火箸が、かたんと倒れた。
現れたのは、真剣な表情の稔とその稔にがっちりと手を繋がれた早苗。
それを見て女将は、なんとなく事態を察した。
おそらく、今日のおつかい先が男寡のいる得意先だと、稔が知ったのだろう。
やれやれと持っていたペンの尻で頭を掻くと、
「そこに座りなさい。」
女将は言った。
しかし、稔は座る事なく、女将に向かって、
「早苗さんを嫁に下さい。」
と、もう一度はっきりと言った。
それを聞いた女将は声を荒げることもなく、さらに一度「そこに座りなさい。」と言ってから、早苗にお茶の用意をするように言った。
早苗が席を外している間に、女将は稔と話をした。
噂がもう出来ていると。
早苗が戻る頃には、稔は落ち着いた様子になっていた。
早苗は訳がわからないまま、ほうじ茶の入った湯呑みを三人分置いた。
そして、女将が言った。
「早苗、藤村さんと所帯を持ちなさい。アンタらがまとまった方が、周りが色々落ち着く。アンタだって、その方がいいでしょう。」
早苗は目を瞬かせた。
女将は溜め息を吐きながら、説明を始めた。
「藤村さんがねぇ、早苗の居ない所で、色々女の客と揉めてるのさ。なんでもいい娘がいるとか、何をすれば喜ぶだろうとか。
言わなくてもいいことを女の客に言ってしまってるからねぇ。藤村さん目当ての女たちが騒ぎ出してるんだよ。」
ふぅ、と深く息を吐いた。
女将は、こめかみの当たりをぐりぐりと指で押しながら、続けた。
「その女たちが騒ぐと、その女たちに惚れてる男たちが躍起になって藤村さんには女がいるって言い出してねぇ。
それに、そいつらとは別の奴らもいてねぇ。早苗も見目が悪くないから、早苗を欲しいって言い出す奴らも出てきて。藤村さんが惚れた女ならってバカな奴らもいるし。
色々面倒になってきてたんだよ。
だから、アンタら所帯持ちなさい。それが一番丸く落ち着くから。」
この話はこれで終いと言うと、女将はゆっくりとほうじ茶を啜った。
雪も熄んだ空の下で、早苗は稔の手を取って、お嫁にして下さいと言った。
日の当たらない土蔵の前だったが、そここそが二人にとって相応しい場所に思えた。
二人が土蔵の前で、初めて言葉を交わした落ち葉の頃から、半年も経たない最後の雪の日だった。
早苗は炬燵で横になりながら、稔と所帯を持つまでの記憶をゆっくりと味わっていた。
稔が出征してから、復員して戻ってくるまでの間に、ずっと、何度も何度も思い返した記憶はどこまでも鮮明に蘇った。
時々、布団の中で稔と思い出話をしたりもする。
互いに確かめるように。
出征後の話をしない代わりに、所帯を持って暮らした頃の話を何度もした。取りこぼしのないように。お互いに記憶を持ち寄って、二人で記憶を固めていった。
その記憶の中では空襲で亡くなった女将も、きりきりと働いて、生きていた。
その早苗から見れば、豊子と稲川の関係は、どうにも頭が痛くなるばかりだった。
構っていられるかと、放っておいたが、珠代が寝っ転がったままの早苗の肩を、ぽすぽすぽすぽす叩く。
面倒な顔で早苗が起き上がると、
「稲川さん、ご実家に戻られるそうなのよ。そのご実家に戻る時に、一緒に豊子さんをお嫁さんとして連れて行きたいそうよ。」
珠代が頬を染めながら、大事件のように言ってきた。
早苗はそれを聞いて、豊子の人の話を理解する能力に疑問を抱き始めた。
よくこれでキャバレー勤めをして、ホステスが出来たものだと、やはり頭が痛くなった。
早苗の気も知らずに、豊子は顔を真っ赤にしたまま、涙目で「どうしよう…」と言っていた。
早苗は興味も無さそうに、
「稲川豊子になればいいじゃない。」
と、寝っ転がったままで答えた。




