第三十六話 雪の終わり 5
早苗は珠代に豊子を任せて、ごろんと炬燵に入ったまま横になった。
早苗にとって稲川のやり方はまどろっこしいことこの上ないので、もう何も言う気が出なかった。
目を閉じて、早苗は稔と会った頃を思い出す。
早苗は稔に一目惚れをした。
何かのおつかいで、稔が早苗の仕事場に反物を持ってやってきたのだ。
襖を開けて入ってきた稔を見た瞬間、早苗は恋に落ちた。
そして、その一目惚れした日からひと月以内には、稔の隣で話をしていた。早苗はそのために、すぐに動いていたからだ。
丁稚奉公から勤めている稔の生活は極めて単純だった。
奉公先の店の用事が済めば、早苗の勤めるお針子の店の裏手にある土蔵前で絵を描いている。そして、時間になればまた店へ戻る。
それ以外は住み込みのため、店から出ない。
御用聞きや品物を届ける時は外に出るが、顔が良い稔が居ないと、店に来た女の客から文句を言われるので、客の多い時間ほど稔は店に居た。
それを知った早苗は、土蔵の前で稔と偶然会う機会を探した。
落ち葉を箒で集めて、掃除をするフリをしながら、稔が来るのを待った。
稔が来る。
箒を持った早苗が挨拶をして、「邪魔にならないようにしますね」と言って立ち去る。
最初はそんなひと言だけのやり取りだったが、稔の鉛筆で描かれた絵を見てからどんどん会話が増えた。
早苗自身、絵は詳しくもないが、着物の柄を見ているせいか草花の絵は見ていて楽しかった。それを正直に稔に言うと、稔は早苗の思う以上に喜んだ。
「わたし、藤村さんの絵、好きよ。」
「そう言って貰えると嬉しいな。」
そう言って、恥ずかしげに笑う稔を早苗はもっと好きになった。
稔は優しすぎる。
顔がいいからと、それを鼻にかける事もなく、店に立って女に声を掛けられてもそれを本気にする事もない。
稔は自分に自信が無いのだ。
早苗が驚くほどに。
どれだけ顔が良いと言われても、すぐに人から否定される。中身のない男なんだと、自嘲気味に稔は言う。
それは稔が応えないことに腹を立てた女たちの投げつけた言葉が原因なのだろうか。
早苗はそんな碌でもない女たちに腹を立てながらも、そこが稔の懐に入る理由になるとすぐに気がついた。
早苗は毎日、稔の絵を褒めて、他の女とは違う事を稔に言い続けた。
稔は真面目な人だと。
稔は正直な人だと。
稔は妻になる人を裏切らない誠実な人だと。
きっと稔は妻に優しい良い夫になると。
稔自身の事を褒めながら、早苗にとっての理想の男を囁き続けた。
落ち葉を箒で集めてもそれほどの量にならない冬になっても、土蔵の前でふたりは会い続けた。
そして、早苗は会うたびに稔を褒め続けた。
稔こそ、早苗にとって、理想の男であると。




