第三十四話 雪の終わり 3
出版社は小さな画集を先に売り、その後に原画展を開き、付加価値をつけて売る経過らしい。
不況の中の策なのか。それとも稔を実験台にしているのか。
それはともかく、画集を出すためには、絵を描かなければならない。
十二号ほどの大きさの油絵。
女のモデルの絵を。
顔だけ描くのか、全身まで描くのか。
早苗はそれが面白くない。
肖像画の様に胸から上だけでも腹立たしいのに、全身を稔に見られるのだ。
そもそも、出版社が稔に声を掛けたのも、ご婦人達が稔に自分の肖像画を描かせたことが発端だ。
その絵がひとつの流行りのように、客が来るたびに説明を何度もする。
見目の良い男に自分の絵を描いてもらう。
それがどれほどの贅沢で、楽しみであるか。
そこまで何度も語るのだ。
単純だが、侮れない。
女たちにとって、火遊びでもなんでもないただの絵描きの依頼だ。
稔以外にも、それなりにご婦人方に人気のある画家はいる。
しかし、身持ちが悪い。
その点、稔は早苗が常にそばにいるので、危険なことはない。軽い火遊びもどきの楽しみに、ちょうど良いのだ。
早苗としても、他の女が稔に本気にならないなら、それでいい。
絵を描いて、お金を貰う。何の問題もない。
しかし、時々、早苗に面と向かってくる女が出てくる。
その都度、早苗が追い払っているのだが、今回は出版社側がモデルとして複数の女たちを既に用意している。
その女たちと、今日明日と稔は会い続けるのだ。
出版社側としても、稔の好き勝手に描かせるわけがない。
売れる絵が必要なのだ。
もちろん、そこに早苗は必要ない。
早苗は焼き菓子をぱきり、と食べた。
少しだけ手元の菓子が砕ける。
豊子がお茶を飲みながら、
「えー、でも、アタシ、早苗さんの絵は欲しいですよぉ。」
と、なんの含みも無く口にしていた。
早苗はしばらく黙って豊子を見ていたが、つい悪戯心がむくりと出てきた。
暢気な顔をしている豊子。
ぱくぱくと、珠代の持ってきたクッキーを全種類食べている。
口の端に食べカスをつけたまま、ふわふわと笑っている。
稲川といい、豊子といい。
稲川ばかりを責めては不公平だ。ここは、平等に豊子にも言わなくてはならない。
どうでもいい理屈を作り出した早苗は、豊子に問い詰めるように、聞いてみた。
「それで、稲川さんとはどうなったの?」
豊子は湯呑みをぐっと、口に近付けると、一気に残りを飲み干した。
「あら。」
珠代が驚いた顔をした後に、にんまりと笑った。
「豊子さん、稲川さんと何かあったのね。」
「ど、どうしてですか!」
「あら、分かりやすいもの。豊子さんは。ねえ、早苗さん。」
「そうですね。それで、何があったのかしら。」
早苗は珠代に構わず、豊子にもう一度聞いた。
すると、豊子は湯呑みを両手の中でくるくると弄びながら、口を尖らせた。
「クリスマスのダンスパーティーは行かないって言われました。」
「あら、稲川さんがそんなことを。」
「それで、クリスマスの前に迎えに行くからって。アタシ、ダンスパーティー楽しみにしていたのに。」
「ちょっと待って。豊子さん。」
早苗は眉間に皺を寄せた。
「稲川さんは迎えに行くと言ったのね。」
「そうですよ。ダンスパーティー行かないのに、どこに行くんでしょうね。」
「どこにって。」
早苗は豊子を見て、だんだん頭が痛くなってきたように思えた。
珠代は二人を黙って見ていたが、早苗が頭を押さえているのを見て、何かを理解したようだった。
「豊子さんは、迎えに行くと言われたら、何があると思われますの?」
珠代は豊子にやんわりと聞いた。
豊子は目をぱちぱちとしていた。
「何処かに出掛けるんですよね。」
早苗は頭を抱えた。
そして、稲川に心の中で詫びた方がいいように思えてきた。
その早苗の様子を見て、しばらく考えるように目線を上にあげていたが、珠代はちょっと口元を弛めた。
そして、にっこりと笑って視線を合わせると、豊子に言った。
「お嫁に迎える、という意味じゃないかしら。」
豊子が固まった。




