第三十話 虫追い 6
稔に纏わりつく虫たちも、僅かな希望を見てしまったから、纏わりついてくる。
その希望の痛みを早苗は知っている。
だから、いつも全身全霊をかけて、稔への想いを込めて、追い払っている。
妻だから、稔がそばに居るのではなく、早苗だから、稔は離れずに居るのだ。
焼け跡での虚無感を知っているからこそ、早苗は稔と共に在ることに執着する。
失うことを知っているから、失いたくない。
どんなことをしてでも、稔の体温を、匂いを、声を、早苗のそばに。
互いの皮膚が境界線であるのなら、その境界線ぎりぎりまで交わりたい。
なんなら、稔のためなら、内臓の中にまで入ってもいい。
ただ、その後の稔が早苗のものでは無いのなら、内側から稔を食い尽くしてしまうに違いない。
それこそ怨霊になってでも、稔から離れる事はない。
それほどの覚悟は、戦争の間、ひとりの間、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、
稔が恋しい
ただそれだけの想いを確かめて、作られていった。
それが今の早苗だ。
その早苗から見れば、稲川の戸惑い、ためらいなど、虫よりも価値が無かった。
早苗は稲川へ向かって言った。
「もう、ふたりで来ないで下さい。
来たら、稲川さんだけ、すぐに追い出します。」
稲川は呆気に取られた顔をしていたが、言われたことをよくよく考えたのか、表情を引き締めた。
そして、言った。
「わかった。もうふたりでは、来ない。」
早苗は、少しだけ表情を緩めた。
その顔を見た稲川が口調を少しだけ弛めて言った。
「それじゃあ、ここに来た用事を聞いて貰えませんかね。」
「ええ、稲川さん。どうぞ。」
「実は田舎の兄の具合が悪くて、しばらく息子と帰ることになったんです。
すぐには豊子さんには言えないが、必ず伝えるから。
それまでは、ご猶予を願いたい。」
稲川は最後のところで、軽くウインクをして言った。
元来が、ひょうきんさのある稲川だ。
早苗とのやり取りで、気まずさを残して帰省しないように、少しだけ冗談めかして言ったのだろう。
早苗は、肩の力をふっと抜いた。
「ええ、黙ってますから。お早めに。」
「承知しました。藤村夫人。」
互いに顔を見合わせて、少しだけ間を置いた。
「あら、それじゃ、大変じゃありませんか。これから汽車ですか。」
「ええ、それで申し訳ないんですが、留守中の家を稔に頼みたいんですよ。
ああ、普段はお隣さんが見てくれます。ただ、郵便物などで急ぎのものを見てもらいたいんですよ。
稔が何日かおきに来るからとお隣さんにも言っておきましたので。何かあれば電話をお願いします。」
「まあ、そうだったんですね。
分かりましたわ。主人が不在で申し訳ないです。
あ、今、簡単なお弁当を用意しますから、汽車で食べて下さいね。」
早苗はにっこりと笑いかけると、箒を縁側に横たえてから、土間の方へと消えて行った。
庭に残された稲川は、薄く貼り付けた笑みをそのままに、
「稔、すげえなぁ。」
と、少し虚脱した声でぽつりと溢した。
あと、
「オレには早苗さんは無理だ。」
とも呟いた。
縁側の軒下に吊るされた干し柿だけが、それを聞いていた。
曇り空の下、稲川はひとり頭を掻いた。




