第二話 早苗という女 2
梅雨の晴れ間は、夕方前には崩れた。
雨音が微かに続いている。
夫の稔が描いていた油彩画は、あとは乾くのを待つだけだ。
本来なら、今日の昼間にあの女が来る必要はなかった。それなのに、わざわざやって来たのは、稔に会うためなのだろう。
それくらい稔はいい男なのだ。
日本人にしては、すっと通った鼻筋に、大きな二重まぶたの目には長いまつ毛がぶら下がっている。
眉も映画俳優のように、きりりとしていて、ほんのわずかに厚めの唇がきゅっとした様子で閉じられていると、妻の早苗ですら見惚れてしまうくらいだ。
髪はゆるく七三に分けられてはいるが、素人床屋の早苗がいつも髪を切っているので、少しだけ長い。
その長めの髪がまた色気を帯びて見える。
そんないい男が、優しい声で自分を見つめて、絵を描いてくれる。多少の懐の余裕がある女なら、頼んでみたいと思うのも無理はない。
そもそも稔は、召集前は早苗の前でだけ絵を描いていた素人だ。それが従軍画家のお気に入りになった成り行きで、絵の描き方を覚えただけの市井の画家に過ぎない。それでも稔は、復員後は絵を描くことであれば、どんな仕事でも断らずに描いて来た。
その辺の店の看板でも、映画館からの頼みでも、雑誌の中のわずかな挿絵でも。その積み重ねで、値段の割にはいいだろうと思われたのか、なんとか食べていけるようになっていた。
ただ、早苗の気に入らないことがひとつだけあった。
それは稔が女の絵を描くのが得意だということだ。
そもそも稔が絵を描き始めたのも、早苗を描いていたからだと、描かれていた本人である早苗は、当然知っている。
だが、早苗を描くことと、他の女を描くことは、早苗にとっては全く違う。しかし、食べていくには早苗ばかり描いているわけにはいかない。今の世の中、西洋風の女の方がいい。
寝る時は香水をつけると答えた外国の女優がもてはやされる時代だ。着物美人の早苗の時代ではない。
わかっている。
だが、それと夫婦間の気持ちは別だ。
雨戸を閉め、土間と"アトリエ"と呼ばれた奥の部屋との間にある、六畳間の居間に敷いた布団の上に、稔が本を片手に寝転がっていた。
雨音が徐々に増している。
早苗は電灯を切るために、稔の枕元に立った。ほどいた髪がうつむいた拍子に前へ落ちる。逆光のまま、稔に問いかけた。
「……ねぇ、昼間の女の方がいいの?」
稔は枕の上で頭を動かし、早苗を見上げるが、表情が見えない。
眩しそうに目を細くしている稔を見て、早苗の口元に笑みが浮かぶ。もちろん、それは稔には見えていない。
「お客さんだからね。お金を払ってくれるだけの人だよ。」
五尺七寸の稔が横たわった布団は、それだけで早苗に男を感じさせた。
「ねえ、それなら」
早苗の言葉は、急に強くなった雨音にかき消された。
不意に電灯が消される。
上向きになっていた稔の腹に、布団越しにぬくもりがのしかかる。
稔の手から本が落ちる。
早苗の両手が稔の両肩に置かれる。
小柄な早苗が乗ったところで、稔には心地よさしかない。
稔が生唾を飲み込む。
ざあと聞こえる雨音の中、早苗は稔の耳元に唇を寄せると、
「他の女には、させないでよ。あなたは、わたしだけの、ものよ。愛してるわ。」
稔の冷たい耳に触れるように囁いた。
そのまま、顔を互いの正面に持って行くと、早苗は右手を肩から離し、稔の顔に添えた。
添えた手のまま、すっと親指だけで稔の下唇を撫で、
「おくち、あけて。みのる、さん。」
と甘い声で命じた。
稔の息が熱を持った。
稔は言われるがままにゆっくりと口を開ける。
稔の上に乗っている早苗は、足で挟んだ体の心臓が早鐘を打っていることに気がついている。
ぞくり、と快感が走る。
早苗は、開いた口に親指を入れると、稔の歯の裏を爪で横になぞった。
かかっと稔の口の中で音が篭もる。
しかし、稔には骨ごと鳴り響いたように聞こえる。
はっ、と息が漏れる。
早苗はそのまま、口の中の舌に親指の腹を押しつけると、言った。
「わすれないように、しなくちゃ、ね。」
暗闇の中、嫣然と微笑む早苗の声が、稔の耳に届いた。
外は、雨が降り続いている。
明日以降も17時投稿予定です。
よろしくお願いします。
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お題をいただいたので、急遽追加投稿。
『落花流水 ー余談ー』(稔視点二話目の翌朝)
https://book1.adouzi.eu.org/n7391gz/
短いです。本日18時投稿予定。
ʕ•ᴥ•ʔにやり。




