第二十七話 虫追い 3
早苗は子どもを産んだことが無い。
孕むことは何度もあった。
それなのに、いつも流れてしまう。
バラック小屋で、佳乃の子どものすみれを抱きしめて、眠っていた夜に感じた幸福感は、早苗にはもう訪れなかった。
空襲警報が鳴らなくなった夜は、碌な屋根も布団も無かったけれど、子どもの温もりをずっと抱えていることが出来た。
その温もりを稔との子どもが与えてくれるのだろうと、ぼんやり思っていた。
けれど、稔と抱き合って眠る時とは違う、体温の高い小さな生き物は、早苗の腕に届く前に、いつも早苗の体を通り過ぎていってしまった。
最初は、食べ物に事欠く頃だったから、仕方がないと思った。
それが、何度も繰り返すと、もう早苗の体には何も訪れなくなった。
ただ、稔のために、女の体であり続けた。
周りでは、赤ん坊がたくさん生まれ続けていたらしい。
久間木の孫のかつ子は同級生がたくさんいるらしい。
小学校の生徒が急に増えて、先生が足りないらしい。
全部、早苗には、らしい、としか言えない。
あの時、産まれていれば、小学校へ、入っていたのだろうか。
ひとり、そんなことを考えたりもする。
稔にも、何も言えずにいる。
だから、何度も嘘をつく。
この女にも。
汚い己にも向けて。
「稔さんに、子どもは出来ないわよ。」
早苗は包丁を差し出したまま、女へ話し掛ける。
「わたしから稔さんを奪っても、あなたは子どもは産めないわよ。むしろ、出来てしまえば、ただの不貞ね。」
怯えた顔の女に、早苗は艶然と微笑む。
そこには、怒りも怯えもなかった。
ただ、稔の女としての、誇りだけで笑う早苗が居た。
「わたしから、稔さんを奪いたいなら、殺しなさいよ。息の根が止まるまで。何度でも刺しなさいよ。
わたしは、生きている限り、稔さんを手離したりしないわ。どんな手を使ってでも、誰にも渡さない。
わたしから稔さんを離したいのなら、殺しなさいよ。
さあ。」
ひっと女の喉から音がした。
早苗が僅かに包丁の切っ先を上げると、たまりかねたように女は悲鳴をあげて、縁側から外へと出て行った。
それを見送った早苗は、
「誰も刺してこないのね。」
ぽつりと零した。
「その程度で、稔さんを寄越せだなんて、よく言えるわ。」
包丁ごときで。
死ぬような目に遭っても、早苗は稔を手放す気は無い。
もう二度と、離れたくない。
記憶の中の焼け野原と青い空が、いつでも早苗の中に空虚を思い出させる。
焦げ臭いと、単純に言えないあの匂いまで、一緒に。




