第一話 早苗という女 1
割烹着姿のまま、玄関脇の草をむしっていると、奥の六畳間からわざとらしい女の声が聞こえる。
それに乾いた笑いで、返す夫の声が続く。
女は部屋をひとつ挟んだだけの、すぐそばに妻がいる状態の夫に、一体何をしようというのだろうか。
ひとときの梅雨の晴れ間、雑草は旺盛に伸びている。むしった先から生えてくる。その上、草の下には蟻の巣が蔓延っている。砂糖壺に群がってくるのは、この巣からか。
忌々しい。
玄関から入ってすぐにある土間は台所。手前からタイル貼りの四角いカマド、流し、手押しポンプと並んでいる。
早苗は水を張った流しの桶で軽く手を洗い、手押しポンプで薬缶に水を直接入れる。
薬缶を流しに置き、着物の上に割烹着を着た早苗は、七輪の前に屈みこむと、口をすぼめて大きく息を吹いた。
案配よく、炭火が熾る。
ぱちっと音を立てながら、赤赤と炭が色付く。
下がり眉をさらに下げて、早苗はもう一度息を吹きかけた。
すぼめる唇は、柔らかそうに色づいている。
梅雨時の炭は、湿気っていて熾りにくい。何度も何度も口をすぼめた。
そろそろ午後のお茶を出す時間だった。早苗は、夫の稔と、そのお客様であるご婦人の分を用意している。安い安い茶葉だ。
夫の稔は、復員後に絵描きを始め、なんとか夫婦が生きていける分の稼ぎを出せるようになったのはこの一年ほどだ。
ああいう品のないご婦人の絵を描いて、お稼ぎになられている。
早苗の眉間に皺が寄る。
大きく、ゆっくり、息を出す。
早苗はお地蔵さんに供える心持ちで、ふたつの湯呑みを盆に載せると、土間に面した六畳間の更に奥の"アトリエ"と、どこかの馬鹿女が今言っている六畳の奥の部屋へ入った。
襖は最初から開きっぱなしだ。
「先生、アトリエのほかにも、ワタシを描くならいい場所があるんですよ。今度、そこに行きませんか。」
「いや、ここの方が道具もあるので。」
茶を運んできた早苗の姿が見えているのに、敢えて大きい声で嬌声じみた話し方をする女に、早苗は苛立ちが増した。
「稔さん、お茶をお持ちしました。お客様にもどうぞ。」
割烹着を着た着物姿の早苗は、下がり眉に奥二重の切れ長の目をしており、いかにも貞淑な妻に見える。そこに加えて、ひっそりとした笑顔でお茶を置いていくので、大概の客は早苗を侮ったまま終わる。
稔はわずかな仕上げを残しただけの油彩画を前に、早苗の機嫌の悪さに気付いた。女の客は、御し易い細君だと思ったのか、鼻で笑って湯呑みを手にする。
サイドテーブルを夫と客の間に出すと、早苗は笑みをたたえたまま、一礼して土間の方へ戻った。
七輪の上に乗ったままの薬缶を手にすると、早苗はカマドの前を通り過ぎ、玄関から出る。
そして、玄関脇の蟻の巣がある所へ行くと、ためらいなく薬缶の熱湯を全て注ぎ込んだ。
巣からお湯が溢れて、蟻が浮かんで流れ出て来る。
「いつの間に、湧いてくるのかしら。」
早苗は愁聲で呟いた。




