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第百七十九話 雨後の始末

本日、更新1回目です。

更新2回目は18時です。

 夜明けと共に、久間木は寝床から起き出すと、着流し姿で庭へ出た。

 そのまま、高下駄でぶらぶらと畑を見るようにして、離れの方へ進んだ。


 畑のあちこちで、葉に穴が空いていた。


 (ひょう)でも降ったのだろうか。


 久間木は早苗がまだ起きていないだろうと、玄関を遠回りして雨戸が閉まったままであることを確認した。


 桜の葉も、雨で落とされたようだった。

 視線を地面に落とすと、紫陽花が幾つか折れて落ちていた。


 久間木は眉間に皺を寄せた。


 紫陽花の花は、枯れてもそのまま冬を越すくらいにしぶといはずだ。

 それが、折れて落ちている。


 嫌な感覚が久間木を襲った。

 何の根拠もない。


 紫陽花とあの二人には、なんの因果もない。


 けれど。


 久間木は「昨夜の大雨で雨漏りはしていないか」と聞くために、慌てた様子をしながら玄関の戸に手をかけた。


 鍵がかけられているから、開くはずはないと思いながら、横に戸を引くと。


 からり


 玄関の引き戸が開いた。


 久間木は土間の方から血の匂いが流れてくるのに、気が付いた。


 高下駄を土間に下ろす。


 かつこつと、音が響いた。


 下駄を脱いで、上り框に片足をかけて、障子を両側から開くと、屏風の裏が見えた。


 久間木は顔を歪めながら、屏風を脇に避けると、中にいる二人を見つけた。


 血溜まりの中に早苗の手を握った稔が倒れていた。


 久間木は、手前にあった早苗と稔の足先を交互に触れたが、どちらも冷えていた。


 藍染の着物を着た二人は、裾を見出すこともなく、人形のように横たわっていた。

 稔から血が流れていなければ、眠っているようだった。


「ためらい傷もないとは…藤村さん、あなたは。」


 早苗の空襲で受けた傷は考慮に入れていた。

 しかし、稔以上の過酷な戦争経験をした兵隊はたくさんいたからと、稔の苦しみを久間木は読み落としていた。


 細やかに絵を描く男が、何も思わなかったはずはない。

 何度も、人を殺したのだろう。

 首の傷の場所が、的確だった。


 確実に命を落とす場所を知っていた。


 早苗が稔を殺すことは出来ないと、油断をしていた。

 稔も早苗に執着をしていた。


『もう少し、早苗にいい暮らしをさせてやれないかと、今頃になって気付きまして。』


 雛人形を見せた時の稔の顔を思い出した久間木は、過ちに気が付いた。


 稔は、稔の力で早苗を守りたかったのだ。


 早苗に守られてでも二人で生きられればそれでいいとは、思えなかったのだ。

 早苗を守ること。

 それが稔の生きる理由だった。


 それが叶わなくなった。


 立ち直る間を与えずに、早苗が全てを捧げたのだろう。

 稔はその重さに潰された。


 まだ、稔が早苗の荷物になる前に。

 それが最後の希望だったのだろうか。


 分からない。


 久間木は口紅が乱れた早苗の顔を見て、涙を流した。


 分かっているつもりでいた。


 早苗も稔も、久間木の中で支配できると、思っていた。


 けれど、死んだ。


 不思議と早苗の顔に血はついていなかった。

 稔の頬に散った血は、もう乾いている。


 二人とも、安らかな顔をして死んでいるのを見ていると、久間木は耐えられずに声をあげて泣いた。


 どうして死んだ。

 どうして、生きてくれなかった。


 どうして。


 頼ってくれれば。

 何か出来たはずだ。

 久間木では相談の敷居が高ければ、佳乃でも珠代でも豊子でも稲川でも誰でもいい。


 みんな早苗と稔を好きだった。


 早苗が怖がりながら、愛情を与えたことをみんな知っている。


 それを早苗は



 久間木の嗚咽が止む。


 久間木は今更ながら、一つのことに気がついた。

 早苗も稔も、懸命に愛情を与えた。

 けれど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 早苗も稔も絶えず、好意を互いに示しあっていた。

 それは、自分が愛されていると、思えなかったからではないだろうか。


 どれほどの愛情を示しても、受け取ることが分からなかった。


 だから、離れれば終わりだと思ってしまう。


 血縁の繋がりも信じられなかった。


 その二人が、互いを求めながら、互いの想いを信じる事が出来なかったら。


 そもそも、愛されるということを、根本から理解していなかったら。


 愛するだけ、愛して、何も返ってこないことに疲れて。


 久間木は上り框から土間へと体を落とした。

 汚れることも気にせずに、土間に体を埋めるようにして、泣き続けた。


 久間木だって似たようなものだ。

 母親と書生が死んだ時、泣く事が出来なかった。

 母親に愛されていなかったと、そう思えば泣くことは出来なかった。


 自分もどうとも思っていない。


 そう思えば、母に捨てられたことにならないから。


 それに、泣き続ける弟妹と、怒り狂って日本刀を振り回す父親を見て、久間木は長男として取り乱してはいけないと思ったから。


 だから、泣かなかった。


 そして、それからは誰が死んでも泣けなかった。


 妻が亡くなった時も。


 けれど。


 本当は泣きたかった。

 母を恋い慕う子どもとして。

 書生を兄のように思っていた自分のために。

 妻が亡くなったことを悼むために。


 泣きたかった。

 本当は泣きたかった。


 泣けずにいた久間木が、今、ようやく泣いている。


 愛情を受けていないと、信じたまま死んでいった早苗と稔を見て、いつかの己の姿を見た。


 それは、とても哀しいと思った。


 久間木は乳母もなく、育った。

 そこに母親からの愛情はあった。

 それを久間木は無かったことにしていた。


 それに、久間木は今更気がついた。


 愛されていた。

 母親に愛されていた。


 早苗だって、乳を与えられ、世話をされて育ったはずだった。

 捨てていかれたとしても、それまでを母親として育てていたのだ。


 その事実に目を背けていたのは、そう思わないと生きていけなかったからだ。


 生きるために、心を捻じ曲げて、痛みをやりすごして、さらに大きな傷を作って、その大きな痛みで、最初の痛みを消そうとした。


 消えはしないのに。


 積み重なって残った痛みだけが、重くのしかかって、早苗と稔を潰した。


 愛されていたと認めれば、痛むからと。


 愛されていたと認めてくれていれば、今も生きていたのだろうか。


 久間木は自分の中の濁流のような感情と、もう取り戻すことのできない二人を思って泣き続けた。





 身動きのとれない状態の久間木を息子の敬蔵が見つけた時、珠代と豊子はまだ久間木の家に辿り着いていなかった。







 長い梅雨の明けた朝、藤村夫妻の遺体が見つかった。






 奥の方の部屋にある押し入れの上段に、久間木へ売約済みと紙の貼られた絵と、迷惑をかけることを詫びた早苗の手紙があった。


 下段には、佳乃と豊子と珠代宛に、手紙と早苗の描かれた油絵が揃いになって置かれていた。


 久間木が稔の両親を説き伏せて、喪主として葬式を執り行った後、三人にそれぞれ手渡した。


 佳乃は真っ赤な目から涙をぼろぼろとこぼしながら、何も言えないままに一礼すると帰って行った。


 豊子と珠代は、宿にしている久間木の家で、手紙を読んだ。


 豊子は最後まで嫁ぎ先での注意を繰り返す早苗の文字を目で追いながら、だんだんと読めなくなっていった。


 涙がぽつぽつと音を立てながら、便箋に落ちる。


「そこまで酷くないですよ…早苗さんのばか。」


 豊子は最後まで読む事が出来なかった。

 何度読んでも、途中で文字が読めなくなる。


 涙が枯れそうになっても、手紙を開くとぼろぼろと泣いてしまった。


 ずっと、夜通し絵を撫でては、涙をこらえていた。



 その豊子の隣の座敷では、珠代が呆然としたまま、畳まれた布団にもたれかかっていた。


 早苗からの手紙は、一行だけ。


『あなたの娘に生まれたかった』



 珠代は静かに、静かに泣き続けた。








18時の更新で、最終回です。



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