第十七話 盛夏の祭り 5
稔は優しく早苗の手をとると、ゆっくりと包丁から手指を剥がしていった。
早苗の両手が包丁の柄からすっかり離れると、その包丁を棚に戻し、早苗の両手を取ったまま、上り框から部屋へ連れて行った。
電灯もつけていない部屋で、ふたりは両手を握り合い、立ち尽くしていた。
遠くで太鼓の音が聞こえたような気がした。
次第に、それは早苗自身の体から響く心臓の音だと気が付いた。
心臓の音は、太鼓の音と似ている。
早苗は今さらながら、自分の迂闊さを呪った。
代わりなど居ない。
どうしてと、今なら思えた。
ただ、あの時の早苗は、稔の居ない世界に耐えられなかった。
その僅かな、けれど大きな隙をあの男に狙われたのだ。
一度だけと、そう言われるたびに、早苗の中のどす黒い怒りと、それを覆う虚無感が、少しだけ減るような気がして。
魔がさしたのだ。
何度か、あの男の上に乗り、首を絞めた。
望まれるままに。
終戦の年の終わり。
早苗は生きるためだけに、ヤミ市で働いていた。
働くと言っても、店主である背の曲がったオヤジの言う通りに動いていただけだ。
そこにあるだけで、すべてのものは、値がついた。
生きるために、人はものを食わなければならない。
配給を待っていては、死んでしまう。
これなら戦争が終わる前の方が良かった。
まだ、食べることが出来ていた。
すべてが焼けてしまった所から、早苗の記憶が曖昧だから、そう思っているのかもしれないが。
早苗は、稔に関わる場所をすべて、空襲で失った。
早苗と稔を知る人を、何人も何十人も、空襲で失った。
全て黒く、白く、燃えてなくなった。
何度目か分からない空襲警報のサイレン。
稔に関わるすべての物を持ち出したいが、防空壕は狭い。
肌身離さず持つことが出来たのは、小さな画帖一冊。
すべての頁に稔の手による早苗が描かれており、表紙の厚紙の裏には二人並んだ写真が一枚。
早苗の本当の家族は、稔だけだった。
父と義母と弟は、三月の空襲で死んでしまっていた。
遺体を見つけて、確認した途端、横に用意されていた穴に投げ込まれて、それで終いだった。
何も残らなかった。
稔の両親は、生き延びていたが、早苗の身を受け入れるだけの余裕はもちろんなかった。
早苗はそれもそうだろうと、すぐに納得した。
互いの状況は、そのまま同じだったからだ。
持ち家も何も無い、ただの貸家暮らしだ。
稔の両親だけなら、早苗と仲の悪い義妹がなんとか面倒を見てくれるだろう。
ただ、戦地にいる稔からの連絡が届かなくなることだけが、早苗の憂慮すべきことだった。
焼け残っていた稔の家の旦那寺を連絡所に決めて、早苗は稔の両親と焼け跡の中で別れた。
それからの早苗は、空想の中で息をしていた。
稔の出征後、早苗は稔と暮らした部屋で、ひとりだけの生活をなんとか耐えて、生きていた。
その部屋も全部燃えてしまった。
早苗の中で不安だけが渦巻いていた。
生きて帰ってくれば、それでいい。
でも、本当に帰ってくるのだろうか。
いちにち、いちにち、早苗の体から、稔と暮らした部屋の記憶は消えて、土に囲まれた湿り気だけが身を包んだ。
それに耐えるため、空想の中で、毎日稔と話をした。
それだけで、早苗は生きていた。
早苗は画帖一冊だけを手掛かりに、稔と話を続けた。
そして、雨風を凌いでいるのかさえ分からないような、じっとりと湿った横穴に身を寄せているうちに、終戦を迎えた。




