表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
178/182

第百七十七話 大雨の夜に 2

本日、1回目の更新です。

2回目は18時です。





 稔はただ耐えた。


 触られるだけ。


 卑猥な言葉を聞くだけ。


 時々、裸にされた。




 それだけ。





 ひとりで飯を食べ、ひとりで放って置かれた。


 隠居老人の目が怖く、誰も関わってこない。


 老人が死んで、ようやく他の奉公人と同じ仕事を任されるようになった。

 けれど、それまでの稔のことを知っている同僚からは、蔑ろに扱われた。

 弱々しい稔は、男からも女からも、虐めてよい対象として認識された。


 稔は、何故生きているのか、時々分からなくなった。


 腕を折られて、働けることが少なかった時に、金のかからない暇つぶしにと、絵を描き始めた。


 それが、稔を誰も居ない所へと連れ出してくれた。


 静かな稔だけの世界。

 描いている間は、絵を描く稔の意識だけがあった。


 己を責める稔も、嘆く稔も、痛みを堪える稔も、全て消えた。


 ただ、見て、ただ、描く。


 それだけが、稔の全てになる。


 絵は、稔を救ってくれた。


 口下手で、言葉も上手く出せない稔の心を穏やかにさせてくれた。


 その絵が。


 早苗と巡り合わせてくれた。


 絵を描くことが唯一の楽しみになった時、土蔵の前で早苗と会うようになった。


 そこで、初めて人として、男として、認められる感覚を知った。


 さなえ。

 さなえさんと、言うのか。


 稔が初めて人に執着をして、それを相手にも求めた、初めての女。


 それが早苗だった。





 早苗がいれば。

 早苗といれば。


 稔は生きていける。



 戦地で早苗を守れていない自分を責めていた。

 だから、生きて帰った後は、早苗を守ろうと決めていた。


 食べ物を、着る物を、住むところを、早苗のために、稔は与えよう。


 そのために、絵を描いた。


 戦地に置いてきた仲間のために。

 早苗のために。

 自分のために。


 稔は絵を描いた。


 それだけが、稔の出来ることだった。


 それなのに。


 もう絵を描けない。


 それを理解した時、真っ暗な世界で稔が狂い始めた。



 稔は最初から気付いていた。


 紛い物の画家だと。


 戦地で会った画家は、本物の画家だった。

 線が、空間の把握が、色の選び方が、全てが違った。


 きっと彼ならば、目が見えなくなっても、絵を描く代わりのことを見つけるだろう。

 粘土で作るのかもしれない。

 紙で何かを立体的に作るのかもしれない。


 絶対に、彼ならば作ることを止めない。


 それが、稔には無い。


 絵だけが、稔に、許された、()()()()()()()()()ものだったから。


 あれをしてはいけない。

 これをしてはいけない。


 たくさんの女たちが稔を縛るために、禁止を作った。

 その中で、してはいけないものに入らなかった、すり抜けたもの。


 それが、絵を描くことだった。


 絵が、稔を救った。

 絵が、早苗に会わせてくれた。


 絵が、戦死した仲間に償わせてくれた。


 絵が。


 絵が。


 絵が、絵が描けなければ。


 死んだ方がいい。


 きっと早苗は、離れて行ってしまう。


 何も出来ない稔の絵を褒めてくれた早苗。


 絵の描けない男など、邪魔になるだけだ。


 どれほど、早苗に言葉を尽くしても、


 足りない。


 届いていない。


 どれほど、早苗を抱いても、


 翌朝には忘れたように、早苗は起きている。



 早苗に、稔の想いは届いていない。


 分からない。


 早苗が、分からない。


 それでも、手放したくない。


 そばに、いてほしい。


 いまのさなえが、絵をかいていたみのるを


 みすてられないでいる


 それだけなのかもしれない


 ふたりだけの


 とじこもった家のなかで


 さなえはいってくれたから


『もう、ひとりにしないで…』


 ひとりに、しないから


 もうさなえとはなれたり、しないから


 だから


 さなえ


 すべてを おれに うばわれてくれ


 おれも すべてを


 ささげるから








 

 稔が早苗の上を跨いで、乗る。


 布団に横たわった早苗の腹の左右に、稔の両膝が触れる。

 稔が膝で早苗を固定して、早苗の肩に触れる。


 いつかの夜の早苗からの誘いが、逆さになったようだった。


 早苗が両手で稔の顔を挟んだ。


 互いに目を閉じて、唇を触れ合わせる。


 息のかかる距離で、早苗が囁いた。


「稔さん、あなたのものに、して。愛してる。ずっと、離れないで。」

「早苗、早苗は俺のものだ。」


 もう一度、互いに「あいしてる」と言葉を交わしてから、稔は肩に置いていた両手を早苗の首に添わせた。


 ゆっくりと、早苗が目を閉じる。


 稔が、親指で、早苗の喉を撫でた。





 二人が今夜の約束を決めたのは、雨戸を開ける前。


 真っ暗な世界で、稔が思い出したのは久間木から聞いた心中の話。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 ふと、そんなことが頭をよぎった。


 早苗が一緒に死んでくれるなら、稔は何をしてもいいと、言った。


 早苗は、悦びを含んだ声で、答えた。


「稔さん、あなたのその手で、殺してくれるなら、いいわ。」


 稔は、きっと今の早苗は艶然とした笑みを浮かべているだろうと、思った。





 早苗の願い事が、叶った時だった。



 妻殺しの藤村稔。


 稔が死んでも、生き残っても、早苗の名前が稔から離れることはない。



 絶対に。



 早苗は喜色満面の笑みを浮かべていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ