表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
177/182

第百七十六話 大雨の夜に 1




 屋根をばたばたと雨が打ち続けている。





 (かまど)で煮炊きする音も、早苗の足首で鳴る鈴の音も、全てかき消されていく。


 早苗と稔は、雨音に囲まれた家の中で、静かに夕飯を食べている。


 稔の頬に手を当てた早苗が、一箸ひと箸、稔の口に運ぶ。


 早苗が去年作った梅干し。

 早苗の得意な煮染め。

 稔の好きな炒り卵の野菜炒め。


 ひとつひとつ、早苗が稔の口に運ぶ。


 頬に当てた手が、わずかな強さで稔に口を開けるように伝える。


 稔が食べ終わると、早苗は胡座をかいた稔の中に座り、食事を始める。


 稔は黙々と食べる早苗の帯の辺りに後ろから腕を回し、早苗の背中に額を当てている。


 時々、稔の髪が首筋に触るのか、くすくすと早苗が笑った。


 夕飯を終えて、早苗は片付けをしながら竈で湯を沸かした。

 (たもと)を汚さないように、(たすき)掛けで竈に向かっている。

 (たらい)に水を入れながら、薪をくべている。


 その早苗の後ろ姿を見ているかのように、稔は上り(かまち)に腰をかけていた。


 まるで、絵を描くために早苗を見ている時のようだった。


 稔は、音だけで、早苗の存在を拾い続けている。

 ひとつも取りこぼしをしないように。




 盥にお湯が溜まると、先に稔が入った。

 早苗は稔の背中を洗い流しては、濡れたままの背中に手を当てて、骨をなぞるように撫でた。

 元々が筋肉の薄い稔の背中から、さらに肉がなくなり、骨が浮いて見えた。

 その背中を早苗は愛おしそうに撫で、唇を押し当てたりしていた。


「早苗。」

「なあに、稔さん。」


 いつも通りの口調で、いつも通りのやり取りだった。

 ただ、いつもより少し丁寧に稔を洗った。


 早苗の風呂を稔も手伝おうとしたが、着物が濡れるからと早苗は断った。

 その代わり、上り框に座ってそばにいて欲しいと頼んだ。


 早苗は水音を立てながら、稔と風呂に入るといつも悪戯をされたことを楽しげに話した。

 稔も苦笑しながら、相槌を打っていた。



「本当に、俺は幸せだと思う。」



 小さな声で稔が言った後、声を立てずに笑った。

 とても美しく。


 早苗はそれに気が付かずに、体を洗っていた。






 雨音が一層激しくなった深夜。


 早苗と稔は布団の上にいた。


 周りには、あるだけの衝立と屏風。

 稔が描いた花の絵が貼られた衝立と屏風は、いつも稔の周りを囲むように置かれていた。普段から立ててあり、風除け程度のもので特に気にもしなかった。

 しかし、早苗が片付けをしてみると、存外多かった。


 その衝立と屏風に囲まれて、二人は布団に座っていた。

 揃いの藍染の着物を着て。



 稔は早苗の頬を、肩を、腕を、胸を、背中を、太腿を、膝を、足首を丁寧になぞった。

 見えないけれど、一度見ていた記憶を呼び戻し、頭の中に早苗の姿を思い浮かべた。

 記憶の中の早苗たちが、混ざる。


 まだ、土蔵で出会ったばかりの頃の早苗。


 何度も話をして、笑い合うようになった頃の早苗。


 雪の中、笑う早苗。


 結婚をして、初めての夜を迎える前に見せた頬の赤い早苗。


 赤紙が届いた時の強張った顔の早苗。


 画帖に描き写すために見つめた早苗。


 出征の時、強い瞳で見つめる早苗。

 戦地で思い描いた夢の中の早苗。

 細く折れそうな体になりながらも、喜びを浮かべて稔を迎えた早苗。

 初めて洋服を買って着せた時の恥ずかしそうな顔の早苗。

 針を持って真剣に縫い物をする早苗。

 料理をする早苗。

 怒った早苗。

 笑った早苗。

 愛おしげに稔を見つめる早苗。


 早苗。

 早苗。

 さなえ。


 失いたくない。

 手放したくない。

 ずっと、俺の早苗でいて欲しい。


 ずっと。

 結婚をする前から、ずっと。

 早苗が好きだった。


 初めて、人として、ひとりの男として、認められたと思った。


 男たちには、力で勝てず、女たちには言葉で(おとし)められ、稔の誇れることは何も無かった。


 優秀な兄は、戦争で功績をあげて、柱になった。

 社交的で気の強い妹は、その美しさと聡明さを買われて、金のある家に嫁いでいった。


 いつも両親は、兄と妹のことで人から褒められ、稔は災いを呼ぶ子どものように持て余していた。


 両親は人が良すぎる。

 弱すぎるともいう。


 兄はその両親に褒められたくて、懸命に生きて戦地で死んだ。

 妹は、誰からも愛されることを望んだ。


 稔は。

 何をしても兄よりも、妹よりも、優れたものを見出せなかった。


 顔がいいと言われても、結果はいつも碌でもないことばかり。


 その尻拭いに、家族に迷惑ばかりをかけて、妹にはひどく嫌われた。


 どこにも、稔の居場所はなかった。


 迷惑な息子は、顔を買われて奉公先が早く決まった。


 色狂いの隠居老人の相手。

 それが稔の最初の仕事だった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 遂に稔のルーツが!( ˘ω˘ )
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ