第百七十六話 大雨の夜に 1
屋根をばたばたと雨が打ち続けている。
竈で煮炊きする音も、早苗の足首で鳴る鈴の音も、全てかき消されていく。
早苗と稔は、雨音に囲まれた家の中で、静かに夕飯を食べている。
稔の頬に手を当てた早苗が、一箸ひと箸、稔の口に運ぶ。
早苗が去年作った梅干し。
早苗の得意な煮染め。
稔の好きな炒り卵の野菜炒め。
ひとつひとつ、早苗が稔の口に運ぶ。
頬に当てた手が、わずかな強さで稔に口を開けるように伝える。
稔が食べ終わると、早苗は胡座をかいた稔の中に座り、食事を始める。
稔は黙々と食べる早苗の帯の辺りに後ろから腕を回し、早苗の背中に額を当てている。
時々、稔の髪が首筋に触るのか、くすくすと早苗が笑った。
夕飯を終えて、早苗は片付けをしながら竈で湯を沸かした。
袂を汚さないように、襷掛けで竈に向かっている。
盥に水を入れながら、薪をくべている。
その早苗の後ろ姿を見ているかのように、稔は上り框に腰をかけていた。
まるで、絵を描くために早苗を見ている時のようだった。
稔は、音だけで、早苗の存在を拾い続けている。
ひとつも取りこぼしをしないように。
盥にお湯が溜まると、先に稔が入った。
早苗は稔の背中を洗い流しては、濡れたままの背中に手を当てて、骨をなぞるように撫でた。
元々が筋肉の薄い稔の背中から、さらに肉がなくなり、骨が浮いて見えた。
その背中を早苗は愛おしそうに撫で、唇を押し当てたりしていた。
「早苗。」
「なあに、稔さん。」
いつも通りの口調で、いつも通りのやり取りだった。
ただ、いつもより少し丁寧に稔を洗った。
早苗の風呂を稔も手伝おうとしたが、着物が濡れるからと早苗は断った。
その代わり、上り框に座ってそばにいて欲しいと頼んだ。
早苗は水音を立てながら、稔と風呂に入るといつも悪戯をされたことを楽しげに話した。
稔も苦笑しながら、相槌を打っていた。
「本当に、俺は幸せだと思う。」
小さな声で稔が言った後、声を立てずに笑った。
とても美しく。
早苗はそれに気が付かずに、体を洗っていた。
雨音が一層激しくなった深夜。
早苗と稔は布団の上にいた。
周りには、あるだけの衝立と屏風。
稔が描いた花の絵が貼られた衝立と屏風は、いつも稔の周りを囲むように置かれていた。普段から立ててあり、風除け程度のもので特に気にもしなかった。
しかし、早苗が片付けをしてみると、存外多かった。
その衝立と屏風に囲まれて、二人は布団に座っていた。
揃いの藍染の着物を着て。
稔は早苗の頬を、肩を、腕を、胸を、背中を、太腿を、膝を、足首を丁寧になぞった。
見えないけれど、一度見ていた記憶を呼び戻し、頭の中に早苗の姿を思い浮かべた。
記憶の中の早苗たちが、混ざる。
まだ、土蔵で出会ったばかりの頃の早苗。
何度も話をして、笑い合うようになった頃の早苗。
雪の中、笑う早苗。
結婚をして、初めての夜を迎える前に見せた頬の赤い早苗。
赤紙が届いた時の強張った顔の早苗。
画帖に描き写すために見つめた早苗。
出征の時、強い瞳で見つめる早苗。
戦地で思い描いた夢の中の早苗。
細く折れそうな体になりながらも、喜びを浮かべて稔を迎えた早苗。
初めて洋服を買って着せた時の恥ずかしそうな顔の早苗。
針を持って真剣に縫い物をする早苗。
料理をする早苗。
怒った早苗。
笑った早苗。
愛おしげに稔を見つめる早苗。
早苗。
早苗。
さなえ。
失いたくない。
手放したくない。
ずっと、俺の早苗でいて欲しい。
ずっと。
結婚をする前から、ずっと。
早苗が好きだった。
初めて、人として、ひとりの男として、認められたと思った。
男たちには、力で勝てず、女たちには言葉で貶められ、稔の誇れることは何も無かった。
優秀な兄は、戦争で功績をあげて、柱になった。
社交的で気の強い妹は、その美しさと聡明さを買われて、金のある家に嫁いでいった。
いつも両親は、兄と妹のことで人から褒められ、稔は災いを呼ぶ子どものように持て余していた。
両親は人が良すぎる。
弱すぎるともいう。
兄はその両親に褒められたくて、懸命に生きて戦地で死んだ。
妹は、誰からも愛されることを望んだ。
稔は。
何をしても兄よりも、妹よりも、優れたものを見出せなかった。
顔がいいと言われても、結果はいつも碌でもないことばかり。
その尻拭いに、家族に迷惑ばかりをかけて、妹にはひどく嫌われた。
どこにも、稔の居場所はなかった。
迷惑な息子は、顔を買われて奉公先が早く決まった。
色狂いの隠居老人の相手。
それが稔の最初の仕事だった。




